新技術吸収

第1部 塩飽の海人たち7

仲間の死乗り越えて

 メア・アイランドの海軍造船所でも、咸臨丸一行に対する厚遇は変わらない。カニンガム長官は艦の修理に全面的な協力を約束した。

 乗員の宿舎も決まり、作業にかかろうとした矢先、悲報が舞い込む。サンフランシスコの海員病院に残してきた水夫の死だった。

咸臨丸の投錨地

 塩飽広島の源之助(二十五歳)が没したのは米国到着の六日後。航海中から衰弱がひどく、歓呼の声も耳に届かないままの最期は痛ましい。付き添った同郷の幸吉、伊三郎にみとられたのがわずかな慰めだった。

 一週間後、佐柳島の富蔵(二十七歳)が後を追うように息を引き取った。二人のなきがらは市街を見下ろす丘にねんごろに埋葬され、勝海舟が墓碑銘を揮毫(ごう)している。

 苦楽をともにした仲間の相次ぐ死。水夫の動揺は大きかった。<今は水夫も四十八人となったため、いろは四十八文字の合印を入れ…>。作業用の長靴や合羽が配られた際の石川政太郎の日記の一節。淡々とした文言にかえって悲痛な心情がにじむ。

 病院ではまだ数人の水夫が熱病に苦しんでいた。政太郎らは三日三晩、経を唱え回復を祈ったという。塩飽の男たちの情の厚さがしのばれる一コマだ。

 咸臨丸の出帆後に他界した長崎の峯吉と合わせ、三人の墓はのちに郊外のコルマ日本人墓地に改葬され、現在に至っている。

 余談だが、司馬遼太郎の「アメリカ素描」はコルマの印象記を収めた章で源之助と峯吉を取り違えて紹介している。客死した水夫の存在を広く知らせた著作だけに残念でならない。

 荒天で破損した咸臨丸の修理個所は山ほどあった。メーンマストの取り換え、帆の新調、外板の修繕。仲間の死に沈んでばかりはいられない。水夫たちは米国人技師の手を借りながら、作業に精を出した。

1860年ごろのメア・アイランド。左に浮きドックがみえる(石版画、バレホ海軍歴史博物館所蔵)
1860年ごろのメア・アイランド。左に浮きドックがみえる(石版画、バレホ海軍歴史博物館所蔵)

 造船所の施設は目を見張るものばかりだった。士官・小野友五郎は初めて見る浮きドックの仕組みを驚きを交えて記している。<まずドックの下底を水中に沈め、船を入れた後、浮かし道具で船を高く浮かせ…あたかも陸上にあるよう>。政太郎の日記にこのドックの絵が残っている。

 熱心に装備の寸法を測り、蒸気機関の見取り図を作る乗員の姿は、米国人にも驚きだった。ブレッティン紙は<みな造船に志があり、日本でも同じような船を造る考えらしい。その時はかえって米国人より立派に製造するだろう>と賛辞を送っている。

 あらしの航海で船室にこもり、ブルック大尉から「憶病なダチョウ」にたとえられた士官も水夫も、ここでは新しい知識や技術の吸収に生き生きとしているようにみえる。

 「優れた艦船の建造と、航海術の習得が国家の急務と身にしみて感じたのでしょう」と幕末の日米交渉史に詳しい作家フレデリック・ショットさん(49)は言う。

4年前に閉鎖された海軍造船所。咸臨丸一行が滞在した当時の工場が一棟残っている
4年前に閉鎖された海軍造船所。咸臨丸一行が滞在した当時の工場が一棟残っている

 海軍造船所は一九九六年に閉鎖され、広大な敷地は今、歴史公園へ模様替えが進んでいる。「軍施設時代には一般人はまず入れなかった。日本人はたぶん初めて」と広報担当のジョセフ・リュートさん(63)。一八五五年に建てられた赤レンガの工場が一棟残るだけで、当時の面影を探すのは難しい。

 「太平洋戦争ではここが重要な後方基地になり、ガダルカナルで活躍した艦船の多くが母港にしていました」(リュートさん)。  咸臨丸はのちに近代海軍と建艦技術の礎を築く人材を輩出している。彼らに友情の手を差し伸べ、世界に目を開かせた記念の場所が、日米対決の拠点の一つになったのは、歴史の非情な巡り合わせというほかない。