出会い

第1部 塩飽の海人たち6

好奇心呼ぶ極東の民

 三月十七日。朝もやを通してカリフォルニアの山なみが姿を現した。

 日の丸を艦尾に掲げた咸臨丸は、水先案内人の誘導でサンフランシスコ湾内を進む。バレホふ頭の沖約三百メートルに投錨(びょう)したのは昼過ぎ。三十七日間の苦難の航海は、祝砲と市民の歓呼に迎えられ幕を下ろした。

咸臨丸がいかりを下ろした1860年当時のバレホふ頭(サンフランシスコ市図書館所蔵)
咸臨丸がいかりを下ろした1860年当時のバレホふ頭(サンフランシスコ市図書館所蔵)

 <群れをなし遠望するもの蟻(あり)のごとく>(木村摂津守の日記)。

 美しい三本マストと均整のとれた船型。咸臨丸はずんぐりした捕鯨船や漁船群の中でひときわ目を引いただろうが、鈴なりの市民の関心は艦ではない。

 はるばる極東から太平洋を渡ってきた「神秘の国」の民を一目見ようという好奇心に街は満ちていた。日本人漂流民と接した経験のある市民はごく限られている。百人近い集団の来訪は米国建国以来初めての歴史的大事件だ。

 いかりを下ろすのを待ちかねたように新聞記者が押しかけ、艦内を見て回った。翌日のアルタ・カリフォルニア紙がその様子を伝えている。

 <艦内はよく整とんされ、清潔。われわれが姿を現すと、水夫は驚きの目で迎えた。彼らは教養が高いように思われた>。なぜ教養があると感じたのか説明がないが、初対面の好印象はその後の報道でも一貫して続いている。

 <われわれの行動に非常に興味を示し、時計や鉛筆、ナイフ、衣類などを物珍しげに見ていた>とも。好奇心の強さなら日本人も負けていない。

 到着翌日、市長らが来艦したのを手始めに、咸臨丸の乗員は下にも置かないもてなしを受ける。

 市議会は一行の歓迎費用に三千ドルの緊急拠出を決定。市主催の晩さん会に向かう馬車は群衆に取り囲まれ、立ち往生するほどだった。

 サンフランシスコは大陸横断鉄道の完成を控え、活気づいていた。太平洋を介した日本との通商が定着すれば、世界の中心都市になれる。そんな期待と打算も厚遇の背景にあったのだろうが、それ以上の誠意を一行は感じていた。

 <この国の人みな懇篤にして礼譲あり>。木村摂津守は礼を尽くした応対に深い感銘を受けている。

 東と西の「幸福な出会い」。その象徴として一八六〇年のこの日米交流を多くの研究書や著作が取り上げている。だが、不思議なことに歓迎風景や咸臨丸の写真はどこにも掲載されていない。

現在はおしゃれな桟橋が整備され、市民の憩いの場になっている
現在はおしゃれな桟橋が整備され、市民の憩いの場になっている

 「咸臨丸関係の写真? さて、古いのはねえ…」。同市図書館の特別資料室。司書スーザン・ゴールドスタインさんは首をかしげながらデータの検索にかかった。一九〇六年の大震災で「所蔵資料の八割が消失してしまった」という。

 「そのころのバレホふ頭の写真はこれだけ」と書庫から探し出してくれた五点にも咸臨丸の姿は写っていなかった。

 マイクロフィルムで保存されている現地紙三紙も調べてみた。咸臨丸関係の記事は到着後の一週間で十数件。連日の熱を帯びた報道合戦は確認できたが、当時の紙面は活字だけで、写真どころか絵も入っていない。

 士官が市中で歓迎を受けている間、大半の水夫は当直業務で艦内にとどまっている。もし帆仕立方・石川政太郎が上陸していたら、得意の腕で多くのスケッチを残したに違いない。

 熱病にかかったような歓待の一週間はあっという間に過ぎた。

 三月二十三日、咸臨丸は修理のため北方約五十キロのメア・アイランド海軍造船所へ。帰国の途につくまで四十日余り、乗組員はここで米国生活を体験する。