100年目の真実

第1部 塩飽の海人たち5

米人の協力伝わらず

 <日本人は帆をたたむことさえできない。士官は無知。われわれの乗組員が操舵(だ)も見張りもやっている><全くわれわれに頼り切っているようだ>

 咸臨丸渡航の百年後、公表されたブルック大尉の日誌は、暴風雨の中でだれが操艦したかを明確につづっている。福沢諭吉や勝海舟が公言した「アメリカ人はただの便乗者」を全否定する赤裸々な内容だった。

咸臨丸の航路
咸臨丸の航路

 <航海中、アメリカの助けを借りることはちょっとでもなかった>。福沢が自伝にこう書き記したのは一八九九(明治三十二)年。日清戦争に勝ち、日露戦争を前にして愛国心が高揚している時期だ。

 大宅壮一は<福沢の頭に、日本人の自信を強め、自尊心を高めようとする意図があったのは明らか>(炎は流れる)と断じている。

 大宅は触れていないが、その二年前、福沢は咸臨丸の事績に冷ややかな政府を激しく論難している。事実を意識的に曲げるつもりはなかったにしても、事績を強調するあまり、ひいきの引き倒しになった可能性は否めない。

 実は、ブルック日記の公表を待たなくても、日本人乗員の日誌にも「事実」は残されていた。斎藤留蔵は<帆の上げ下げなどは一切、亜人の助力を受けた>と率直に書きとめている。

 だが、こうした記録は関係史料の中に埋もれた。福沢や勝の言葉だけがクローズアップされ、咸臨丸渡航イコール「日本人だけの手による壮挙」が定着していく。

 戦前の修身の教科書は「勇気」と題して咸臨丸を取り上げている。軍拡を推し進め世界の孤児になりつつあった日本は、国威発揚のシンボルとしての役割を咸臨丸に求めていた。

 「アメリカ人の助力を恥じる必要はみじんもない。協同作業で太平洋を渡ったことに意義があった」。元連合艦隊参謀の千早正隆さん(90)=東京都=は「ブルックの日記がもっと早く世に出ていたら、日米関係が変わっていたかもしれない」と話す。

 ブルックは渡航後、自分の手柄をいっさい口外せず、海軍への報告書に事実を記載するにとどめている。

 「日記の公開も身内に禁じていたようだ。修好百周年を機にブルックの孫にお願いして出してもらった」と千早さんは明かす。「親日家の彼は、せっかく芽生えた友好にひびが入るのを恐れたのでしょう」。

 ブルックの親日感情がうかがえる言動は少なくない。

1990年3月、サンフランシスコ湾で歓迎の放水を受ける現代の咸臨丸。長崎ハウステンボスが日米修好130周年を記念して派遣した
1990年3月、サンフランシスコ湾で歓迎の放水を受ける現代の咸臨丸。長崎ハウステンボスが日米修好130周年を記念して派遣した

 手厳しい批判が並ぶ日記の中にも<彼らの最初の遠洋航海であり、天候が悪いことも忘れてはならない>と温かいまなざしを向けている。サンフランシスコ入港時、「日本人水夫は航海に精通している」と新聞記者に答えたのも、単なる社交辞令でなく、失敗を重ねながらも<だんだん船乗りらしくなって>(日記)きた水夫への共感があったに違いない。艦の無償修理や水夫の治療にも献身的に働き、木村摂津守らの信望を得ている。

 日記を封印してまで永い友好を願ったブルックの善意はしかし、実を結ばなかった。南北戦争の勃発と幕末維新の動乱。それぞれの特殊事情が両国を急速に疎遠な関係にしていった。

 千早さんは、咸臨丸にまつわる日米協力の事実を旧海軍将官に話したことがある。彼は「初耳だ。きちんと伝えられていたら、日米海軍にももっと緊密な関係が生まれ、戦争は避けられたかもしれない」と嘆息したという。

 咸臨丸は百四十年前の太平洋上にいる。初の渡米が後世どんな扱いを受けるか、当の乗員たちはむろん知るよしもない。

 日付変更線を過ぎ、針路をやや南に振ったあたりから、暴風は収まった。未知の大陸は目前だった。