転覆寸前

第1部 塩飽の海人たち4

荒海になすすべなく

 一八六〇(万延元)年二月十日(陽暦)の夕刻。咸臨丸は浦賀を離れた。

 随行艦でありながら、正使一行を乗せた米艦ポーハタンより三日も早い船出。乗員の意気は天をつくばかりだった。

 しかし、出航後間もなく咸臨丸太平洋の手荒い洗礼を受け、士気はにわかにしぼむ。

石川政太郎の「咸臨丸渡米日記」。水夫が書いた唯一の日記で、自筆のさし絵もついた貴重な資料だ(史跡塩飽勤番所所蔵)
石川政太郎の「咸臨丸渡米日記」。水夫が書いた唯一の日記で、自筆のさし絵もついた貴重な資料だ(史跡塩飽勤番所所蔵)

 <まことに大風。潮が打ち込み、大騒ぎする。一同心配する>

 出航翌日、帆仕立方・石川政太郎(本島泊浦)は「咸臨丸渡米日記」にこう書きとめている。初めて体験する外洋の荒々しさに面食らったのだろう。が、それはほんの前触れにすぎなかった。状況は日を追って悪化していく。

 <猛風はなはだしく炊事もできない。ようやく干飯を蒸して食べた>(二月十四日)

 <船はひどく上下し、半ば海に沈まんとして>(同十八日)

 傾斜角三七、八度。いつ転覆してもおかしくないほど船体は傾いた。甲板を洗う水が滝のようにキャビンにも流れ込み、船内は大混乱に陥る。

 木村摂津守の従者・斎藤留蔵の日記には<起き出て甲板で仕事をした者は日本人乗り組み九十六人中、ただの四、五人>とある。踏ん張った乗員もいたことが分かるが、指揮をとるべき木村と勝海舟の二人は船酔いがひどく、船室にこもりきりのありさまだった。

 <水夫はみな疲労して、帆をたためず><倒れるもの過半>。政太郎の日記にも悲鳴に近い記述が続いている。

 海内随一をうたわれた操船技術は歯が立たず、気力も自尊心も荒れ狂う波の前では無力だった。

 三十七日間の往航で晴れ間がのぞいたのはわずか五、六日。日付変更線を越えるまでの二週間は殊にひどく、あらしは間断なく咸臨丸を襲っている。

 「最短距離でいこうと大圏航路を選んだこと自体に無理があった」と「咸臨丸海を渡る」の著者土居良三さん(78)=横浜市=は指摘する。咸臨丸は出航直前、予定していた赤道沿いの航路を北寄りの大圏に変更している。同乗したブルック大尉の建言だった。

 当時、日本に寄港する米国艦船の大半はアフリカ喜望峰回りのコースをとり、太平洋横断を避けている。冬の北太平洋が荒れるのは彼らの常識だった。

 咸臨丸はなぜ危険を冒す必要があったのだろう。

 「日本人による初の壮図。ポーハタンより一日でも早く目的地に着こうというたかぶりがあった。ブルックにも同じ気分があったのではないか」(土居さん)。結果的に、咸臨丸は最悪の時季に最悪のコースを選び、自ら大しけの巣に突っ込んでいったことになる。勇み足の代償は高くついた。

 艦の構造も災いした。オランダ建造の船は浅海帆走に適した設計で、喫水が浅い。その分、横揺れしやすく一度傾くとなかなか回復しない欠点があった。

 重なった悪条件。しかも、遠洋航海の訓練に乏しい水夫は、荒天下での操帆を全く経験していない。

乗組士官の一人、鈴藤勇次郎が描いた「咸臨丸烈風中航行図」(木村昌之氏所蔵、横浜開港資料館提供)
乗組士官の一人、鈴藤勇次郎が描いた「咸臨丸烈風中航行図」(木村昌之氏所蔵、横浜開港資料館提供)

 日本人乗員の日記を見る限り、出航後間もなく操船は事実上放棄されている。なすすべがなかったというのが実情だろう。

 かじ取りもなく、大波に木の葉のようにほんろうされる咸臨丸。転覆を免れたのは奇跡にすぎなかったのだろうか。

 その答えは百年後の一九六〇年、一冊の日記で明らかになった。

 日米修好百周年を記念して刊行されたブルックの航海日誌は、米人乗員の操艦で苦境を切り抜けた状況をつまびらかにしている。「日本人の手による壮挙」とされてきた咸臨丸渡航の史実を、それは根底から覆すものだった。