出航前夜

第1部 塩飽の海人たち3

にわか仕込みの操練

 一八五五(安政二)年、長崎海軍伝習所で洋式軍艦観光丸を使った初の操練がスタートした。

 幕府や諸藩の家臣に交じって、塩飽水夫もオランダ海軍の教官から航海術や運用術を学び、運航や帆の操作などの実習に取り組み始める。

 和船とは勝手の違う船体構造、言葉の壁。戸惑いの種は少なくなかったが、それ以上に文化や生活習慣の違いに起因する摩擦や世界水準とのギャップに伝習生は当惑した。

咸臨丸の模型。1969年、オランダで見つかった図面をもとに精巧に復元されている=東京・船の科学館
咸臨丸の模型。1969年、オランダで見つかった図面をもとに精巧に復元されている=東京・船の科学館

<日本人水夫は雨の日には実習を渋り、海に出ようとしない>

 教師団長カッテンディーケはこんな記述を報告書に残している。彼を嘆かせたのは日本式航海が「全天候・昼夜兼行型でない」ことだった。

 塩飽水夫は港々の山に登り、いわゆる観天望気をしながら晴天の昼間を選んで操船する。日本近海だけをフィールドにしてきた長年の習慣だ。雨天に海に出たがらないのは水夫にすればごく当たり前の行動。責められる筋合いではないが、世界を駆け巡る列強の航海常識から見れば、驚くべき実態だった。

 前任者のライケンは、強固な身分制度に頭を痛めている。士官は「身分の低い者がやること」と日常の艦上業務に興味を示さず、目下の者からは物事を教わろうともしない。軍組織に欠かせない規律と統率はないに等しかった。

 カッテンディーケらが指摘し、改善を求めたさまざまな問題点は、後に咸臨丸の渡航で現実の障害となって現れる。が、艦船整備と乗員確保に手いっぱいの当時の幕閣に耳を貸す余裕はなかった。

 明治維新までの十数年、幕府の求めで塩飽が送り出した水夫は名前が判明しているだけで延べ三百人余。実際は千人ともいわれる。

 「塩飽にそれだけ頼ったのは、幕府が正規の水軍を養成していなかったから。海防意識の薄さはあきれるばかり」と海事史に詳しい作家白石一郎さん。「鎖国の間に日本は海に背を向け、狭い国内だけをみて過ごす習性を身につけた」。

 二百五十年に及んだ鎖国のツケは航海技術の停滞ばかりか、意識の面にも影を落としている。

 一八五七(安政四)年八月、オランダから購入した咸臨丸が伝習所に着いた。百馬力、排水量六百二十五トン。最新鋭の木造蒸気帆船は三本のマストと大砲十二門を備えていた。

 既に観光丸で長崎・江戸間の回航を経験していた伝習生らは新鋭艦を得て、薩摩、対馬などへの航海実習を重ね、自信をつける。むろん本格的な外洋航海にはほど遠いが、その経験を積もうにも時間は残されていなかった。

 一八五八年、日米修好通商条約を締結した幕府はその翌年、批准のための使節派遣を決定。米軍艦ポーハタンが送迎するこの正使一行とは別に、海軍伝習生らの手で随行艦を派遣しようという「別船仕立て」の機運がにわかに盛り上がる。派遣艦が咸臨丸に決まり、乗組員が任命されたのは出航の三週間前という慌ただしさだった。

 一行は九十六人。軍艦奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ)を提督に、艦長格・勝海舟、随員・福沢諭吉、通訳・中浜(ジョン)万次郎ら幕末維新史に名をとどめる華やかな顔ぶれが並んだ。

 選ばれた水夫は五十人。塩飽の男たちがうち三十五人(本島十二、広島十一、高見島四、櫃石島三、牛島、佐柳島各二、瀬居島一)を占めている。

 日本近海で難破した米測量船のブルック大尉ら十一人も"便乗帰国"することになり、総勢百七人に膨れ上がった。

地図

 洋式軍艦に接してわずか五年。オランダ人教官が指摘した宿題を積み残したままの太平洋横断。しかも日本人だけの手で。

 いかにも拙速、無謀の感が否めないが、それは歴史の帰結を知る者の後知恵だろう。

 初の「壮挙」へ一行の士気は高く、咸臨丸は出帆の日を迎えた。