優れた操船術

第1部 塩飽の海人たち2

鎖国解かれ再び脚光

 ゴトリと音を立てて、朱印庫の引き戸が開いた。

 丸亀市本島の史跡塩飽勤番所。かつて島びとが「宝蔵」と呼んだ蔵の奥に信長、家康ら天下人の朱印状が納まっている。

 「塩飽衆の宝。咸臨丸につながる伝統と誇りの源です」。顕彰保存会長の入江幸一さん(79)は門外不出の書状を広げ「伝統と誇り」に力を込めた。

塩飽衆の誇りを裏書きする朱印状に見入る入江さん。かつては石びつ(後方)に保管されていた=丸亀市本島、塩飽勤番所
塩飽衆の誇りを裏書きする朱印状に見入る入江さん。かつては石びつ(後方)に保管されていた=丸亀市本島、塩飽勤番所

 塩飽諸島。備讃瀬戸二十八島を総称するその名は、「潮沸く」の転化ともいわれる。速くて複雑な潮流が高度な操船術をはぐくみ、古くから塩飽水軍として名をはせた。

 十六世紀後半、信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていく。秀吉は人名(にんみょう)と呼ばれる独自の制度を設け、大名でも小名でもない船方衆に千二百五十石を領知。租税を免じ、自治を許す破格の待遇だった。

 人名制度は徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けた。江戸初期の海運家河村瑞賢は<塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴>とほめちぎっている。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのだろう。

 上方と奥州を結ぶ西回り航路の開設で瀬戸内海が海上輸送の大動脈になると、塩飽の勢いはさらに強まる。最盛時の記録は船四百七十二隻、船乗り三千四百六十人。日本近海を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築いた。

 しかし、さしもの隆盛も十八世紀半ば、城米輸送の特権が回船問屋に移ったのを境に下り坂に。活動範囲は内海に狭められ、船も減少の一途をたどった。

 一八五三(嘉永六)年六月。一度は表舞台から退いた塩飽衆を花道に引き戻す大事件が海の向こうからやってくる。ほかでもない。ペリー率いる黒船の来航は長い鎖国の眠りをむさぼっていた日本を揺るがし、塩飽の眠りも破った。

 「新造船に水夫三十人を出すように」

 大坂町奉行所から通達が舞い込んだのは、その年の暮れ。開国を決意した幕府は大船建造の禁令を解き、自ら初の洋式帆船・鳳凰丸の建造に着手。卓越した操船技術を持つ塩飽水夫の出仕を促した。

 「どうしたものか」。突然の要請に島は困惑した。洋式軍艦となれば和船を操るのとは訳が違う。島の財政も苦しい。人名年寄らは額を寄せて相談したが、断れる道理もなかった。<かねてありがたき国恩をいただき、何国までも出勤仕るべきと心得…>と受諾の口上書は伝えている。

 <何国までも>が後に咸臨丸の渡米にまで発展するとは夢にも思わなかっただろうが、それにしてもけなげなほど神妙な口上。水軍の血を引く荒々しさはうかがえない。

 瑞賢が評した「淳朴」とも符合するこの気質は果たして讃岐の風土に根差すものか、御用船方の伝統が育てた習い性だったのか。「どちらとも言えるでしょうが、塩飽衆は他の水軍と違って元来戦いとは縁が薄い。一貫して輸送集団という特殊な性格を持っていた」と入江さん。

 郷土史家の藤井致一さん(86)=丸亀市津森町=は「忠誠心だけで徴用に応じたとは思えない。海に生きてきた自信と誇りが根っこにあったはず」と話す。それは律義な使命感と呼んでいいものかもしれない。

 後年、咸臨丸の滞米中、まめに働き造船技術まで学ぼうとする水夫の姿は米国人を驚かせた。船乗りに荒くれのイメージがつきものなのは洋の東西を問わない。勤勉、研究熱心を体現した塩飽水夫のこのエピソードは明るみを帯びて幕末史を彩っている。

 歴史の歯車は大きな音を立てて回り始めていた。

 鳳凰丸の建造に続いて一八五五(安政二)年、幕府は長崎に海軍伝習所を開設。塩飽は四十五人の水夫を送り出す。

 見たことのない洋式軍艦。耳にしたこともないオランダ語。初物づくしの操練が始まった。