末えい離散

第1部 塩飽の海人たち17

海駆けた誇りどこへ

 「わずか一筆の土地に二百人近い所有権者がいて、それが全国に散らばっている。一人ひとりを訪ねて青森や九州まで行きました」

 与島、櫃石島など塩飽の島々を橋脚にした瀬戸大橋。その用地買収を担当した県の対策事務所長だった草薙繁さん(70)=満濃町長尾=は当時の苦労を思い起こして言う。  明治まで塩飽諸島を統治した船方集団、人名(にんみょう)。島にはその名残が、土地の共同所有という形で残る。人名の末えいである地権者の離散の状況は、塩飽の島びとの生き方とも重なっている。

 用地買収の対象となった「人名の土地」は、与島の七千三百平方メートル。わずか九筆にもかかわらず、登記簿上の共有者は九十九人もいた。このうち生存者は五十六人、残りの死亡者の相続人が百四十一人。最終的に所有権者は百九十七人にまで膨れ上がった。  「戸籍をすべて洗い出し、子孫を捜し出していくのが大変。中にはブラジルや米国など国外に渡っていたケースもありました」と草薙さんは振り返る。

 大使館を通じて所在を確認したうえで、国際電話で買収交渉し、最後に郵便で署名を交わしたという。

 「わずか数千円の補償のために何万円もかけて国際電話をする。全員の契約が必要なため、それも仕方がなかった」(草薙さん)。

 人名に限らず、土地を残したまま島を離れている人も多かった。大阪、神戸、九州…。中には自分が相続人であることを知らない島民の子孫もいた。

 「地権者のおよそ半分は県外。若い人はほとんど島外に出ていた」と草薙さん。「橋ができれば」と島民に期待された瀬戸大橋も人口流出の歯止めにはならなかった。

 江戸末期、咸臨丸で渡米した水夫の末えいについても状況は変わらない。

 子孫で島に残っているのは、ごくわずか。瀬居島出身の島本善四郎の子孫で、現在も瀬居町に住む島本良一さん(58)は、まれなケース。ほとんどは島を離れ、全国に散らばっている。

 塩飽諸島の子供たちのために建てられた宇多津町の塩飽学生寮。経営者の山口一さん(66)は、サンフランシスコで死亡した岡田源之助(塩飽広島出身)の子孫。源之助は大おじにあたる。

 「先祖が咸臨丸に乗っていたのは聞いていたが、アメリカで死んだとは初耳です。お墓もあるなんて」と驚きを隠さない。 

 父親は塩飽大工。山口さん自身は島に住んだことはなく、兄弟は遠く離れた東京と九州で生活する。

 源之助とともに客死した佐柳島出身の富蔵。その四代目の子孫にあたるという千葉市の鈴木博之さん(63)は「塩飽水夫の血が流れているのか、小さなころから海を渡って商売するのが夢でした」と話す。貿易関係の仕事で約五十カ国を回り、サンフランシスコの富蔵の墓も訪ねたという。

 島本さんら三人はいずれも「大変な困難に立ち向かった先祖は私たちの誇り」と胸を張る。その一方で、島を出た子孫の中には先祖の「偉業」を知らない人びともいるようだ。

塩飽諸島。現在も島民に塩飽魂は受け継がれているのだろうか(丸亀市提供)
塩飽諸島。現在も島民に塩飽魂は受け継がれているのだろうか(丸亀市提供)

 末えいたちは自ら望んで島を出たのか、出ざるを得なかったのか。

 「島の住民が外に出るのは宿命なんです」と塩飽勤番所顕彰保存会長の入江幸一さん(79)=丸亀市本島=は言う。「昔から出稼ぎに出るのが本分。島には働き口もないし、若い人も島に残りたがらない」。

 だが、塩飽水夫の伝統に導かれ、大志を抱いて島を離れた若者も多かったに違いない。

 本島村長を務め、「塩飽海賊史」などの著書を残した郷土史家真木信夫氏は、しばしば「塩飽魂」という言葉を使った。「いつ、いかなる所にありても塩飽島民たるの栄誉を忘れません」。入江さんは子供のころ、小学校長だった真木氏によく神社で誓わされたという。

 それは、島を離れても人名や咸臨丸のことを忘れず、誇りを持って生きろとの教えだった。

 百四十年前、未知の太平洋に挑んだ水夫たちの誇り。塩飽が再び誇りを取り戻すとすれば、その場は海をおいてほかにない。

(第1部おわり)