人名の遺産

第1部 塩飽の海人たち16

歩み分けた二つの島

 塩飽諸島の西端、岡山との県境にほど近い備讃瀬戸に、幕末から現代にかけて対照的な歩みを刻んだ二つの島がある。わずか一・二キロ。手を伸ばせば届きそうな距離で向き合う丸亀市沖の手島と小手島だ。

 「人名(にんみょう)の島として栄えた手島が今は急激な過疎に悩み、手島の開拓地だった小手島は漁業の島としてにぎわいを手にした」。手島を望む小高い丘に建つ開拓記念碑を前に、小手島の漁業合木淳智さん(69)は、皮肉な歴史の巡り合わせに思いをはせた。

地図

 手島はかつて塩飽諸島で四番目に多い六十六人の人名を擁した回船業の島。明治以降は、岡山などに大勢の大工を送り込む大工の島である一方、塩飽では農業の盛んな島でもあった。

 「男衆の八割は出稼ぎ大工。島では家族が除虫菊や葉タバコなどの換金作物をつくり、生活は結構豊かだった」。元丸亀市広島支所長の合田重吉さん(80)=丸亀市手島町=は戦前まで続いた島の光景をこう語る。

 手島の放牧場だった小手島は江戸末期、合木さんの祖先らが手島から入植。明治初めには岡山県北木島、真鍋島の入植者らも加わって開墾を進めた。とはいえ、新しい畑をいくら増やしても土地は手島の財産。ささやかな収穫は年貢に吸い上げられ、手元にほとんど残らない。「手島の漁業権を借りて細々と漁業も始めたが、食べていくのがやっとだった」(合木さん)という。

 そんな小手島に転機が訪れたのは戦後。漁業法改正による漁場解放で、小手島にも漁業権が認められた。「今、島の漁業を支えているイカナゴ漁が盛んになったのもそのころ」と小手島漁協の富田良一組合長(68)。昭和五十年ごろから進んだ漁船の大型化や漁法の近代化は経営の安定をもたらし、後継者も育った。

 一方、手島は高度成長と背中合わせでやってきた第一次産業衰退の波をもろにかぶる。賃金の上昇は労働力を都会に吸い寄せ、農業後継者を島から奪った。

 地域の活力が住民の多寡で測られるとすれば、戦後の人口変遷が両島の盛衰を如実に示している。昭和三十五年国勢調査で、手島(五百五十三人)と小手島(二百八十四人)には約二倍の開きがあったが、徐々に差が縮まり六十年には逆転した。

イカナゴ漁を中心に多くの漁船でにぎわう小手島漁港=丸亀市広島町小手島
イカナゴ漁を中心に多くの漁船でにぎわう小手島漁港=丸亀市広島町小手島

 平成七年調査では手島九十一人、小手島百二十人。手島は三十年間で六分の一に激減した。小手島も過疎化と無縁ではないが、五十年以降はほぼ横ばいを保っている。

 同じ塩飽の海に近接して生きる二つの島の際立つ差異。「手島は人名制にこだわりすぎて、産業構造の転換ができなかった」と日本島嶼(しょ)学会事務局長の長島俊介奈良女子大教授はその背景を指摘する。

 事実、豊かな海に囲まれながら、手島ではほとんどの人が漁業に手を出そうとはしなかった。

 「実際に漁をしなくても入漁料が入った人名の島にとって、漁業とは『地主が小作をする』ようなもの。漁業をどこか低く見ていたところはある」というのは、自らも人名の系譜につらなる塩飽勤番所顕彰保存会長の入江幸一さん(79)=丸亀市本島町=。

 制度自体は明治になって崩壊したが、昭和初期まで塩飽の漁業権を握っていたかつての人名。ありていに言えば“不労所得”の存在が尾を引いた形だが、漁業は人名の仕事ではないというプライドも透けて見える。

 「農業にしても、それで生き抜くためにはまとまった土地が必要だが、土地の所有権は人名株で細切れ状態。人口が減り、土地が余ってきたころには、働き手は高齢者だけになっていた」。合田さんは、今は荒れ地となっている狭い段々畑を見ながら、島の衰退の道を振り返る。

 人名制を負の遺産として抱え込んだまま、海から遠ざかってしまった手島。属地の貧窮から出発し、生活基盤としての海を取り戻した小手島。

 二つの島が描く明暗は、塩飽の海人たちが二十一世紀、海とどう付き合っていくかの澪(みお)を指し示しているようにも見える。