海員学校

第1部 塩飽の海人たち15

世界の海へ人材送る

 海運王国として咸臨丸などに多くの水夫を送り出した塩飽諸島。幕府が崩壊し、水夫の徴用がなくなった後も、船に乗り続けた島民は少なくない。

 明治五年の壬申戸籍によると、船乗りは全島で二百十戸。往時に比べて減ったとはいえ、全戸数の約一割を占める。それは海に生きる塩飽の伝統でもあった。

 本島出身の郷土史家、藤井致一さん(86)=丸亀市津森町=は「塩飽から粟島の海員学校へ行った人も多いと子供のころに聞かされた」と回想する。

 人名(にんみょう)の島ではないが、塩飽諸島に数えられる詫間町沖の粟島。海員学校は、しばしば「船のスクリューのような」と形容されるこの島のシンボルだった。

大正9年建築の旧粟島海員学校。国の文化財建造物に指定されている
大正9年建築の旧粟島海員学校。国の文化財建造物に指定されている

 丸亀藩の統治下にあった粟島は、江戸時代から北前船で北海道と交易するなど海運業が盛んで、一八二七(文政十)年には島民の持ち船が八十八隻に達したとの記録も残る。塩飽本島などで回船業が廃れた後も、明治初期まで北前船の活躍は続いていた。

 が、それも時代とともに移り変わっていく。

 明治も二十年を過ぎると和船型の北前船から汽船へと移行し、操船には国家資格が必要となる。「海運業で栄えた島。船員の養成学校を作らねば島の将来はない」。島の人がこう考えたのも当然だろう。

 明治三十年。島民の後押しによって村立の海員補修専門学校が誕生する。地方船員養成学校の第一号だった。まもなく粟島航海学校と改称、郡立から県立へと移り、昭和十五年には国立の商船学校となる。

 スパルタ教育で全国にも知られ、その優秀さから卒業生は引く手あまただったという。

 「この島では船乗りになるのが当たり前。私の祖父も父もそう。学校の友達も船に乗るのが多かったですね」。商船学校時代の卒業生で粟島に住む小西望さん(74)は「船乗りの島」の特殊性を説明する。

 「昔は世界一周の航海実習もあって、みんな船乗りになりたがってましたよ」

 小西さんの小学校の同級生二十八人のうち、十二人が商船学校に入り、残りも三人を除いてすべて船乗りという土地柄だった。

 だが、終戦とともに試練が待ち受ける。

 頼まれて武器を保管していたため、米軍に軍事教育施設と疑われ、廃校とされてしまう。「もし廃校になってなければ、いまでも商船学校として残っていたかもしれない」と小西さんは残念がる。

 昭和二十一年、幸いにも宮崎海員養成所が粟島に移転し、学校は再開されるが、それは初級船員を養成する海員学校としてだった。

 それでも好況時には海員の募集も多く、待遇の良い外航船を中心に就職先には困らなかった。しかし、高学歴化が進むにつれ、中卒二年制で高卒資格のない海員学校の志願者は徐々に落ち込んでいく。

 さらに海運不況が追い打ちを掛けた。船の合理化が進んで船員の需要が減り、コストダウンのため人件費の安い外国人船員が主流となった。

 「みんな外航船に乗りたくて海員学校に来たのに、近年はほとんど需要がない」。同校の元教官で粟島在住の徳重宏さん(66)は厳しい船員事情を打ち明ける。

 外航船から日本人船員は締め出され、内航船も鉄道やトラックなど陸上輸送に押されて減り続けた。

 その影響を受け、海員学校も全国十三校のうち粟島など五校が整理の対象となった。「今は商船大学を出ても船に乗るのは難しい。今後も廃校が続く可能性はありますよ」と徳重さんは指摘する。

海員学校前の海で水泳訓練をする生徒ら(昭和52年撮影)
海員学校前の海で水泳訓練をする生徒ら(昭和52年撮影)

 粟島海員学校の廃校は昭和六十二年。塩飽諸島の出身者はほとんどいなくなっていた。

 廃校によって生徒や教職員、その家族が島を離れ、「まるで灯が消えたように」(徳重さん)島の活気も失われた。

 九十年の歴史を重ねた海員学校を失った塩飽。だが、現在も少数ながら商船高専などに進む生徒はいるという。塩飽水軍の時代から続く船乗りの伝統は受け継がれていくのだろうか。