大工養成

第1部 塩飽の海人たち14

県内初の工業系学校

 丸亀市の本島中学校の東側、今は畑となっている場所に、かつて優秀な大工の育成を目的とした学校があった。

 「塩飽工業補修学校」(後に塩飽工業学校と改称)。本島、広島、与島、高見島、佐柳島の五カ村で作る組合立の学校で、現在の多度津工業高校の前身。校舎は木造平屋建ての教室棟と付属棟の二棟があった。

 「電灯設備はなかったようだが、大工を目指す子供たちの希望が輝いてたんでしょうな」。父親が同校卒業生で、自身も一級建築士として活躍した高島一市さん(81)=丸亀市本島町=は、父から聞いた学校の風景を思い起こす。

塩飽工業学校の生徒が建築実習として再建した尾上神社=丸亀市本島町
塩飽工業学校の生徒が建築実習として再建した尾上神社=丸亀市本島町

 設立は明治三十年。「富国強兵」を合言葉に第一次産業革命が進展していた時代に、県内初の工業系学校は誕生した。

 大正五年に廃校となり、当時を知る卒業生はいないが、高島さんは同校の学校規則など、貴重な資料を書き留めている。

 それによると、修業年限は三年で、木工科と機織科の二学科を設置。尋常小学校卒業者を対象に読み書き、算数、珠算のほか、木工科は自在画や用器画、木工など、機織科では機織、裁縫などを教えていたことが分かる。

 「塩飽のほか大川や三豊、岡山からも生徒が学んでいた。遠方の生徒は学校近くの寺を寄宿舎に通っていたようです」と高島さん。本島の笠島地区にある尾上神社は、生徒が建築実習として再建したといわれている。

 明治、大正の職人養成はまだ徒弟制度の時代だったにもかかわらず、なぜ学校教育として取り組む必要があったのか。

 高島さんは「塩飽大工といっても、大部分は他国の棟梁の下働き。大工として成功するには技術もさることながら、科学的知識が不可欠。腕のよさだけでは通用しない時代が来ていた」という。

 事実、当時の教科をみても、読み書きや算数、理科などが週三十時間の授業の大半を占め、木工の実科はわずか二時間。算数では代数や幾何学なども教えており、「大工の養成というよりも大工を目指す人たちの教養を高める意味合いが強かった」(高島さん)。

 創立わずか二十年で歴史に幕を閉じた塩飽工業学校。島であるための不便さも一つの要因ではあったが、高島さんは「卒業生たちが働き場所を都市に求めて島を離れ、見返りとして得られるはずの恩恵が島になかったことが原因」と分析する。

 教育の振興は、島人たちに多様な職業選択の機会をもたらした。同校の卒業生にしても、建築関係に進んだ者は比較的少なく、かつて塩飽の大半がそうであった出稼ぎ大工も、安定した生活を求めて都市部に移り住み、島へ帰ってくる者は次第に少なくなっていった。

塩飽大工の技を受け継ぐ高島さん親子。明治初期、本島にも345軒の大工がいたが、今は高島さん1軒だけとなっている=丸亀市本島町
塩飽大工の技を受け継ぐ高島さん親子。明治初期、本島にも345軒の大工がいたが、今は高島さん1軒だけとなっている=丸亀市本島町

 現在、本島には一軒だけ昔ながらの塩飽大工の流れをくむ大工の家がある。本島町笠島の高島昭夫さん(68)と昭由さん(40)親子。

 昭夫さんは十八歳のとき、岡山の大工の棟梁に弟子入り。戦後、宮大工として二軒ほどの社寺建築にかかわったが、すぐに家大工に転向した。

 「宮大工は、現場から現場へと渡り歩く不安定な仕事。子供や家族のことを考えると、定住できる家大工を選んだ」(昭夫さん)という。

 十五年前に本島に戻り、現在は国の「重要伝統的建造物群保存地区」になっている笠島地区の町並みの保存、修理に塩飽大工の技を発揮しているが、「最近は技術が生かせる家が少なくなった」と嘆く。

 「プレハブやツーバイフォー住宅なら、一般の人でも二年も勉強すればできる。ビスやくぎを使って張り合わす建て方は、僕らのやり方と違うが、時代の流れに乗らんと食うにも困る」

 海にはぐくまれ、連綿として受け継がれてきた塩飽大工の伝統。その玄妙な技も画一規格と大量生産の世界では輝きようがない。