海から陸へ

第1部 塩飽の海人たち13

船大工の技術生かす

 岡山市にある国宝・吉備津神社。鳥が翼を広げたような美しい屋根を持つ「比翼入母屋造」で名高いこの神社の本殿は、一四二五(応永三十二)年に再建。その後、一七五九(宝暦九)年から十年かけて修理された時の棟札には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」と本島泊の工匠の名が墨書されている。

吉備津神社本殿修造の棟札。下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)
吉備津神社本殿修造の棟札。下部中央には「塩飽大工棟梁大江紋兵衛常信」の名がある(岡山県立博物館蔵)

 塩飽大工とは、江戸末期から明治にかけ、瀬戸内沿岸を中心に腕のよさで鳴らした塩飽出身の大工の総称。

 「水一滴の漏れも許さない緻(ち)密な造船技術が、この屋根にも生かされとる。普通の大工にはなかなかまねはできん」

 塩飽史談会のメンバーで、常信の子孫に当たる大江進さん(74)=丸亀市新田町=は、二百年以上の歳月を経て今に残る祖先の仕事に胸を張る。

 幕府の御用船方として全国でも有数の海運王国を築いた塩飽。回船業の隆盛は、造船技術の発展を生み、水夫とともに大勢の船大工を輩出した。

 しかし、一七二一(享保六)年、塩飽が一手に引き受けていた幕府城米輸送の特権が大坂の回船問屋に移ると、回船業は衰退の道をたどり、多くの水夫は転業を余儀なくされた。

 <島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は十二、三歳から他国で水夫をしたり、多くは大工職として近国に出稼ぎに出た>(牛島極楽寺蔵「塩飽島諸事覚」)

 船大工もその優れた技術を生かす場を失い、宮大工や家大工に生活の道を求めていった。

 「今でいうリストラ。常に危険がつきまとう海の仕事を続けるより、陸(おか)に上がり、新たな道を切り開くことを選択したのでしょう」。大江さんは当時の水夫たちの気持ちを代弁する。

 当時、どれだけの転業者がいたのか。一七六九(明和六)年に起こった「塩飽大工騒動」の記録によると、騒動に加わった大工は三百七十三人。出稼ぎなどで参加しなかった大工を合わせると、その数は四百五十人に上る。

 明治五年の壬申戸籍では大工の家は七百七戸。塩飽全体の三二・一%を占め、三軒に一軒は大工という状況。「島には千人の大工がいた」という古老の話もある。

 逆に、船乗りの家は二百十戸にまで減少しており、“船乗り三千五百人”とうたわれた海運王国はがらりと姿を変えた。

 現在、香川、岡山に残る社寺建築のうち、塩飽大工の作品と確認されたものは百十三カ所に及ぶ。

 吉備津神社本殿、拝殿のほか、総社市の備中国分寺五重塔、善通寺五重塔など著名な建物が多い。

 「今の善通寺五重塔は天保十一年の雷火で消失したものを、本島の橘貫五郎が再建した」とは、讃岐の宮大工に詳しい黒川隆弘さん(61)=国分寺町柏原=。

 「善通寺は江戸初期まで奈良、京都の宮大工に頼んでいたが、中期以降は塩飽大工。本場に負けない技術を持っていた証(あかし)といえる」。

 明治末期には朝鮮半島に渡り、西洋家具の製作に名人芸をふるった大工もいたという。

国宝・吉備津神社本殿。「比翼入母屋造」という屋根の美しいカーブには、塩飽大工の技が生かされている=岡山市
国宝・吉備津神社本殿。「比翼入母屋造」という屋根の美しいカーブには、塩飽大工の技が生かされている=岡山市

 <塩飽の船隻、特に完堅精巧、他州視るべきにあらず>と称えられた船大工。その技を受け継ぎ、特に木組みや彫刻に優れていた塩飽大工。同じ大工といっても、勝手の違う仕事に戸惑いはなかったのか。

 「船大工は昔から島内の社寺、民家を建てており、転業は比較的容易だった」と大江さん。水夫についても「航海中、壊れた船を修理できないようでは命取り。造船についてもある程度の知識は持っており、大工となる素地は十分にあった」と見る。

 水軍から御用船方、そして大工へ。生業の場を海から陸に移しながら、塩飽は二十世紀を迎える。