人名の解体

第1部 塩飽の海人たち12

御用船方の歴史に幕

 明治まで人名(にんみょう)統治の中心だった丸亀市本島。勤番所のある泊の西隣、小阪(旧小坂)地区の墓地に小さな石碑がある。表に刻まれているのは、幕末に起きた「小坂騒動」の犠牲者十八人の名前だ。

 「明治がもう少し早ければ、こんな悲劇は起きなかったかもしれない」。同地区に住む本島校区連合自治会長の織部清市さん(76)は、石碑に手を合わせながらため息をついた。

明治時代の人名株券と台帳
明治時代の人名株券と台帳

 塩飽諸島は船方集団、人名の共有地として封建社会ではまれな自治権を持ち、全島の政務は島中(とうちゅう)と称する自治組織がつかさどっていた。

 幕府の権威に裏打ちされたその特権は「人名株」という形で代々受け継がれ、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで激しく差別した。

 <間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島治に関与する特権を持たなかった>。本島出身の郷土史家、真木信夫は「塩飽海賊史」の中で差別の実情をこのように記している。

 一方で、人名は幕末に増加した水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもあった。

 泊の支配下にあった小坂は純粋な漁村。移住者も多く、よそ者として厳しい差別を受けた漁師たちが「人名株さえあれば」と考えたのも無理はない。泊への要求は、わずか二株。しかし、人名たちは聞く耳を持たなかった。

 一八六八(慶応四)年一月。激高した小坂の漁師たちは泊浦を襲って家々を打ち壊し、この衝突で双方に死傷者が出た。その報復として人名は他の島々からも人を集めて小坂浦を焼き払い、逃げ遅れた全員を勤番所に留置したという。

 小坂の犠牲者は十八人。ともに人名制の存続を信じた人々による悲劇だった。

 「地元では、もともと小坂にあった人名株を返せという要求だったと伝えられています」と織部さん。「今から思えば意味のないことだが、当時はそれだけ人名の力が大きかったということでしょう」。

 だが、人名の権力も幕府の崩壊とともに失われる。

 明治三年、当時の管轄庁だった倉敷県は「藩制改革により塩飽の領知高を没収し、朱印状はこれを還納すべし」と命じている。

 咸臨丸などに多数の水夫を送り出して来た御用船方としての塩飽の役割もここで終わった。

 人名に大きな抵抗はなかったが、塩飽全島を領有し、長く国家に貢献したプライドから、政府に対し旧藩主や士族に準じた補償を求めた。勤番所顕彰保存会長の入江幸一さん(79)は「人名は土地を持っていたため、下級武士とは違うという意識もあった」と指摘する。

 明治十三年には二千三百円余の一時金が支払われたが、それ以降の請願は一切認められなかった。

 その後の人名たちはどうなったのか。

 「島中会の組織は昭和初期まで残っていました」と入江さん。土地からの収入はなくなったが、周辺海域の漁業権を持っていたため、「海の地主」として下津井の漁師らから入漁料を取っていたという。

 「それぞれの島に人名の代表がいて本島の役場に集まって配当を決めていた。そのころまで人名の意識は強かったように思います」(入江さん)。

「小坂騒動」の犠牲者をまつる石碑=丸亀本島
「小坂騒動」の犠牲者をまつる石碑=丸亀本島

 現在も本島の泊、笠島両地区、与島に人名の子孫らでつくる「人名会」が存在する。共同所有する山林などの収益の配分が目的だ。

 「今では配当はほとんどありませんが、人名株は大切に保存していますよ」。笠島地区の人名会会長を務める高島包さん(72)は「台帳に持ち主を記載して株を管理し、年に一度は総会も開いています」と説明する。

 しかし、明治以降、人名株は売買されたこともあり、人名の子孫であることを知らない人も少なくない。

 過疎、高齢化が進む本島で「いま一番栄えているのは小阪ですわ」と織部さん。泊や笠島などかつての人名浦がさびれる一方で、人口も戸数も一番で漁業後継者も多いという。これも歴史の皮肉な帰結だろうか。