オランダ留学

第1部 塩飽の海人たち11

海軍の近代化に貢献

 咸臨丸の渡米は、日本人の手で初めて太平洋を横断したという壮挙だったが、それは同時に、鎖国の眠りから覚めた日本に、米国との海軍力の違いをまざまざと見せつける航海でもあった。

 早急な海軍の充実を迫られた幕府は一八六二(文久二)年、オランダに対して軍艦開陽丸の建造を発注。造船、操船などの技術研究のため、同国にわが国初の留学生を派遣した。

 その中には、後に“明治造艦の父”といわれた赤松則良や榎本武揚ら士官に交じり、二人の塩飽水夫の名が刻まれている。

 水夫小頭の古川庄八(瀬居島)と上等水夫の山下岩吉(高見島)。

オランダ留学中に撮影された古川庄八の写真
オランダ留学中に撮影された古川庄八の写真

 古川は一八五五(安政二)年、二十一歳で塩飽勤番所から御用水夫を命じられ、その年の八月、長崎海軍伝習所が創設されると同時に咸臨丸に乗り組んだ塩飽水夫らとともに伝習に参加。

 山下も、長崎海軍伝習所の第二期生として操航、操砲などを学んだ。その後、二人は軍艦操練所に移り、ともに小笠原開拓調査に参加している。

 オランダ留学のメンバーは幕府によって選抜された精鋭十五人。むろん、古川らは将来を嘱望された士官を支える職方(技術者)ではあったが、「ひと握りの士官と違い、全国大勢の職方の代表に二人が選ばれたことは意味深い」と郷土史家の西山保さん(75)=多度津町庄=。当時の幕府上層部も塩飽水夫の能力を高く評価していたことがうかがえる。

 オランダにおいて二人は、ライデン市の航海訓練学校に学んだほか、実際に軍艦に乗り組み、遠洋航海の実地操練を受けた。

 赤松の「在蘭日誌」には文久三年の夏から秋にかけて<庄八、岩吉はオランダ軍艦ゼーランド号にて、南米から喜望峰、紅海の方へ稽古(けいこ)のために至る>との記述がある。

 幕府が発注した開陽丸は、長さ七十三メートル。排水量は約二千六百トンと、実に咸臨丸の四倍。一日で海水から三千リットルの真水を作る換水装置など装備は最新式で、当時のオランダ外務省も<優秀でかつ俊足の軍艦である>と保証している。

 操船術の研究を終えた古川と山下は、ラインの河口、ドルドレヒトの造船所に移り、開陽丸の艤装に加わった。

 英米仏の列強海軍に押され、斜陽の陰がみえていたとはいえ、オランダの造船界はまだヨーロッパに覇をとなえていた。そこで目にした最新技術は、まさに“生きた学問”として、後の二人の人生を決める大きな財産となる。

 和船から蒸気機関を動力とする洋式船への転換期。回船業の衰退とともに既に往時の輝きを失っていた塩飽にとって、この二人は特別な存在だったのか。

 塩飽勤番所顕彰保存会長の入江幸一さん(79)=丸亀市本島町=は「確かに二人は優秀だったかもしれないが、実際には多くの塩飽水夫が軍艦の操船や造船にかかわっていた」と指摘。塩飽の存在を抜きにして、海軍の創造は有り得なかったと見る。

 幕末期を通じて徴用に応じた塩飽水夫は延べ千人。

 「身分の壁があり、歴史の表舞台には出ないが、海軍草創期を支えたことは間違いない。水夫がいなければ船は動かないのだから」。

幕府の最新鋭軍艦・開陽丸の絵図。オランダ留学中の古川、山下はこの船の艤装に加わった(開陽丸青少年センター提供)
幕府の最新鋭軍艦・開陽丸の絵図。オランダ留学中の古川、山下はこの船の艤装に加わった(開陽丸青少年センター提供)

 三年後、帰国した古川ら幕府留学生を待ち受けていたのは、非情にも薩摩、長州を中心とする討幕のあらしだった。

 榎本指揮のもと開陽丸に乗り組み、北海道制圧に向かった古川。五稜郭の戦いに敗れ一時期、獄舎生活を強いられたが、その後、オランダ留学の技術を買われて横須賀造船所に入り、海軍技師として活躍した。帰国後、郷里に戻っていた山下も技手として同造船所に任官。古川は製鋼、山下は製帆と分野こそ違え、二人は後に工場長にまで上り詰め、造船技術発展の母体を支えた。

 時代に翻ろうされながらも、懸命に海に生きた二人。その功績は、塩飽水夫が築いた栄光の歴史の残照だったかもしれない。