風雲児

第1部 塩飽の海人たち10

海援隊で龍馬支える

 「ここに讃岐の佐柳高次とあるでしょう。これは咸臨丸に乗っていた前田常三郎のことなんです」

 多度津町庄の郷土史家、西山保さん(75)が示した一枚の資料。それは、幕末に坂本龍馬がつくった海援隊の名簿だった。

 米国から帰国した塩飽の水夫たちは、その後どんな道を歩んだのか。

 ほとんどは一水夫として歴史のやみに消えてしまっている。消息が分かっているごくひと握りの中で、ひときわ異彩を放っているのが、ただ一人の讃岐出身の海援隊士、佐柳高次である。

「高次のアメリカ土産は家宝です」と話すひ孫の前田一美さん=神戸市北区
「高次のアメリカ土産は家宝です」と話すひ孫の前田一美さん=神戸市北区

 渡米から二年後の一八六二(文久二)年。小笠原諸島の開拓調査に向かったその年、高次は後の人生に大きな影響をおよぼす龍馬と出会っている。ともに二十七歳。高次の力量を認めていた勝海舟によって引き合わされた二人は、これ以後、龍馬の死まで行動を共にすることになる。

 「高次は龍馬の大のお気に入りやったそうじゃ」。高次のひ孫にあたる前田一美さん(79)=神戸市北区=は誇らしげに話す。「龍馬に『お前は腕力が強いから突き一本でいけ』と剣術指南されたこともあるらしい」。

 前田さんのもとには、高次が米国から持ち帰ったグラスや絵皿とともに、海援隊の仲間の写真なども残っている。

 海援隊では、高次は龍馬の片腕として活躍する。最も知られているのは「いろは丸事件」だろう。

 一八六七(慶応三)年、詫間町沖で高次が航海長だったいろは丸が紀州藩船と衝突、沈没する海難事故が発生する。高次は龍馬とともに相手の船に乗り込んで航海日誌を証拠品として押さえ、後に徳川御三家の紀州藩から八万三千両もの賠償金を得たといわれる。

 二人の親密さを示すエピソードには事欠かない。「佐柳高次と名付けたのも龍馬。妻のおりょうに龍馬の死を知らせたのは高次だったと伝えられています」(西山さん)。

 龍馬の死後、ほどなく海援隊は解散する。高次はどうなったのだろうか。

 前田家に残る資料では、明治二年、高次は新政府の軍艦陽春丸に士官の肩書で乗り込み、箱館戦争に従軍している。

 一方で、榎本武揚率いる旧幕府軍には、咸臨丸で渡米した本島の石川政太郎ら数人の塩飽水夫も加わっていた。

 官軍と賊軍。かつては力を合わせて太平洋の荒波に挑み、小笠原調査までは同じ道を歩んだ水夫仲間が、「敵と味方」になる皮肉な状況が生まれた。

 政太郎は水夫たちの中では、その後の消息が分かっている数少ない一人。後に許されて横須賀造船所の技術官となり、明治十八年に四等工長で退官するまで海軍で活躍した。  戦功によって高次は兵部省から百八十円もの褒賞金を得、その後も回船会社に入ったり、船長などとして海運にかかわり続けた。明治八年には東京の医者の娘と結婚し、最後は故郷の島で五十六歳で没している。

 「晩年の高次は、龍馬を神さまにして拝んでいたようです」と西山さん。高次は「坂本龍馬神宮」と大きく書いたのぼりに、明治を待たずに死んだ同志ら十四人の名前を記し、毎日供養礼拝していたという。

海援隊で龍馬の片腕として活躍した佐柳高次。右端が高次本人と伝えられている(多度津町立資料館提供)
海援隊で龍馬の片腕として活躍した佐柳高次。右端が高次本人と伝えられている(多度津町立資料館提供)

 高次の墓は、佐柳島乗蓮寺の境内にある。サンフランシスコで死んだ水夫富蔵の墓も近くに並んでいる。

 島で渡米した水夫はわずか二人。にもかかわらず、島では高次のことはほとんど知られていない。水夫たちのその後を追跡調査した文倉平次郎や真木信夫の著作にも、海援隊のことは全く記載がない。

 「富蔵さんは小学校の先生に教えられたが、高次さんのことは十年ほど前まで全く知りませんでした」。松原実巌住職(74)は前田さんに指摘され、一般の墓所にあった高次の墓を富蔵と同じ境内に移したという。

 長く歴史に埋もれていた高次は、後世の想像を超えたスケールの大きな塩飽水夫だった。