ある情熱

第1部 塩飽の海人たち1

探し当てた水夫の墓

 サンフランシスコ市街から南へ約三十キロ。サンマテオ郡コルマの丘に目指す日本人墓地はあった。

 門を入ってすぐ、正面に大理石の墓碑が三つ。一八六〇年、咸臨丸で太平洋を渡り、この地で没した男たちが寄り添うように眠る。塩飽佐柳島の水夫富蔵、同じく塩飽広島の源之助、長崎の火夫峯吉。カーネーションと小菊が墓前に揺れている。

峯吉をはさんで富蔵(左)と源之助(右)の墓。咸臨丸の水夫らに線香を手向ける岡さん=カリフォルニア州コルマ
峯吉をはさんで富蔵(左)と源之助(右)の墓。咸臨丸の水夫らに線香を手向ける岡さん=カリフォルニア州コルマ

 「今でこそちゃんとまつられていますが、墓の在りかさえ分からない時があってね」

 線香を手向けた岡省三さん(82)は問わず語りに墳墓の来歴を話し始めた。滞米七十年余の元銀行マン。日系移民史の生き字引といわれ、サンフランシスコ日米史料館の館長を務めている。

 「日本海軍咸臨丸之水夫」と刻まれた源之助の墓を指でなぞり、岡さんは続けた。「この白っぽい部分。ここだけが地表に出ていたあかし。探し当てたのは文倉さんです」。

 文倉平次郎。サンフランシスコ福音会の書記をしていた彼が客死した水夫の存在を知るのは一八九八年。富蔵と峯吉の墓が偶然見つかったのがきっかけだ。資料を調べた文倉はもう一人、源之助の名に行き当たる。苦難の航海で衰弱した三人が到着後ほどなく息を引き取った、と記録は伝えていた。

 「源之助はどこかに埋もれている」。直感した文倉は墓地事務所の助手を志願して古い埋葬帳を繰り、広大な丘を探し歩いた。墓碑の頭が砂からのぞいているのを見つけたのは一年後。よほど感動したのだろう。「明治三十一年五月二十七日午後四時ごろ」と日時を書き留めている。水夫が亡くなって三十九年の歳月が流れていた。

 文倉の追跡は墓の発掘だけに終わらなかった。

 帰国後、会社勤めをしながら咸臨丸資料の収集に奔走。塩飽の島々を訪ね、水夫の子孫から聞き取りを重ねた。昭和十三年、退職金をはたいて出版した「幕末軍艦咸臨丸」は今も咸臨丸研究の原典として類書の追随を許していない。

 司馬遼太郎は小文「ある情熱」にこう記している。これほどの名著が<専門家でもなんでもないひとによって書かれたということについて、人間の情熱というもののふしぎさを、書棚でこの本の背文字を見るたびに考えこまされる>。

 一人の市井人を咸臨丸に駆り立てた情熱。出発点は無名の水夫たちへの素朴な共感だった。それを終生の情熱に変えたのは、咸臨丸の存在そのものを忘れようとしている歴史への痛憤だったに違いない。

 旧幕が派遣した咸臨丸の事績に明治政府は冷たく、文倉は散逸していた資料の探究に四十年近くを費やしている。あまりに不当な忘却。その象徴が遠い異郷に人知れず埋もれていた水夫の墓だった。

地図

 「ここに立つと、日本とアメリカの来し方をいやでも思うよ」。移民の墓が並ぶ丘で、岡さんの回想は続いている。

 日米が国交をひらいて百四十年。この間、両国が幸福な関係を持った時間はそれほど長くない。激しい排日運動と太平洋戦争、戦後の経済摩擦。排斥と対立の軌跡を身を持って知る岡さんは「それでも」と言う。

 「良くも悪くも対米関係を基軸に日本は歩み、ここまでになった。その第一歩を刻んだのが咸臨丸と乗員。日米交流の先駆者としてもっと思い起こされていいのに、日本からの墓参はめったにない」。岡さんの胸にも、文倉に重なる義憤が宿っている。

 サンフランシスコ湾から駆け上がってくる風がにわかに湿りを含み、墓石を濡らし始めた。雨に煙る丘にたたずんでいると、思いは百四十年前に引き戻される。

 塩飽水夫はなぜ、どんな思いで未知の海に挑んだのか。屈強な海の男を死に追いやった航海はどれほどすさまじいものだったのか。