新瀬戸内海論 連鎖の崩壊  
 
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クジラがいた(中) 浅瀬で出産と子育て
コククジラの回遊ルート

 クジラは瀬戸内海を生殖回遊していた―。
 進藤さんの「繁殖」説は、瀬戸内海のクジラを単なる「迷い込み」とみなしてきた学界への痛烈な異議申し立てだった。著作の前書きに、こう記している。
 <瀬戸内の鯨を研究した学術報告は一つもなく、見つかる鯨はすべて迷入の一語で片付けられている>
 論考をまとめた昭和四十年代初め、汚染が進む瀬戸内海は「ひん死の海」といわれた。川之江市出身の進藤さんにはいたたまれない思いがあったのだろう。瀬戸内沿岸の二十市町村で「クジラの反復進入」があった史実を掘り起こし、「瀬戸内海はクジラのすめる海だった」と結論づけた。詫間の捕鯨会社の存在はその主要な論拠になっている。
 進藤説はしかし、どんなクジラが瀬戸内海をふるさとにしていたのかまでは絞り込んでいない。六年後、鯨類研究の第一人者がその答えを出した。

恵まれた「すみか」
 「コククジラ回遊説」。日本鯨類研究所の初代所長を務めた大村秀雄さん(故人)は昭和四十九年、進藤説を一歩推し進め「コククジラが瀬戸内海で出産、育児をしていた」と、初めて種類を特定する論文を発表した。
 コククジラは体長五―七メートル。沿岸域を好む習性があり、「毎年冬、オホーツク海から日本列島沿岸を南下して豊予海峡から瀬戸内海に入り込む」。大村さんは「周防灘や伊予灘の浅瀬で出産、子育てをし、暖かくなると再び北へ帰っていった」と考察している。
 遠浅が多く、えさの魚やプランクトンにも恵まれた瀬戸内海。長旅に疲れたコククジラにとって、そこは格好の入り江であり、すみかだったに違いない。好物のカタクチイワシを追って燧灘にも頻繁に姿を見せたのだろう。
 大村説にも疑問はある。
 瀬戸内海沿岸ではこれまでミンククジラ、ナガスクジラなど数種のクジラの化石が出土しているが、コククジラは確認例がない。
 大阪市自然史博物館の樽野博幸学芸員は「繁殖していれば、かなりの数のコククジラがいたはず。化石が一点もないのは不自然」と首をかしげながら「クジラの生態には不明な点がまだまだ多い。結論めいたことはだれも言えないでしょう」と付け加えた。
 瀬戸内海のクジラは長く研究者の視野の外にあった。なぞはそれだけ深い。

潮を噴き上げながら伊勢湾を泳ぐコククジラ。かつて瀬戸内海でもこんな光景が見られた(写真提供・鳥羽水族館)
潮を噴き上げながら伊勢湾を泳ぐコククジラ。かつて瀬戸内海でもこんな光景が見られた(写真提供・鳥羽水族館)

高松鯨の不思議
 「なぞと言えば、面白い話が香川新報にありますよ」と県水産試験場の吉松定昭研究主幹が教えてくれた。
 「高松鯨の上陸」と見出しのついた記事は明治三十五年四月、現在の詫間町生里で「一頭の大鯨が浜に跳ね上がった」珍事を伝えている。<鯨の種類は高松鯨にて長さ二丈(約六・六メートル)余。他の大鯨に追われたるか>。
 同二十四年にも<壱岐の国より塩鯨を多く積み来り。同国では俗に高松鯨と称する品>との記事。
 高松鯨とは何だろう。壱岐郷土館(長崎県郷の浦町)に尋ねたら「それはシャチ」と拍子抜けするほど簡単に答えが返ってきた。古来、捕鯨が盛んだった壱岐ではシャチをタカマツと呼び、史料もあるという。確かに「大和本草」など江戸時代の数種の文献にシャチの別称としてタカマツが挙げられている。
 どうやらシャチのことらしいと取材を打ち切ったが、吉松研究員は「文献のタカマツはすべてカタカナ。なぜ高松と漢字で書き、鯨まで付け加えたんでしょう」と得心のいかない表情だ。

消えた回遊
 詫間のクジラに話を戻そう。
 古老の証言記録では捕鯨が盛んだったのはわずか十年ほど。明治三十年ごろからは急速に下火になった。
 香川新報の紙面からも四十四年五月の「伊吹沖で大鯨捕獲」を最後に、近海のクジラに関する記事がぷっつり途絶える。
 今世紀初め、クジラは瀬戸内海からこつ然と姿を消した。

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