茶畑(高瀬町二ノ宮地区)

2000年5月1日

誇り高く味わい深く

 かすりの着物に茜(あかね)だすきが新緑に映える。昔懐かしい茶娘が花を添える一番茶摘みは、春から初夏への季節変わりを告げる風物詩だ。

高瀬町二ノ宮地区の傾斜地に広がる一面の茶畑。一番茶の摘み取りが始まると夏の足音が近づいてくる=高瀬町佐股
高瀬町二ノ宮地区の傾斜地に広がる一面の茶畑。一番茶の摘み取りが始まると夏の足音が近づいてくる=高瀬町佐股

 ここは高瀬町の二ノ宮地区。閑静な山里は県産茶の約六割を占める茶どころで知られる。渋みの中にまろやかな甘みが広がる「高瀬茶」。味はもちろん、傾斜地に広がる茶畑の景観は掛け値なく素晴らしい。

 二ノ宮地区を中心とする高瀬町南部の丘陵地帯はもともとタバコやサツマイモの産地。昭和二十年代の後半、「寒村の振興につながる特産づくり」を検討する中で茶栽培が浮上した。

 技術研修生として静岡で茶の栽培を学んだ高瀬町佐股の宮崎岩美さん(元高瀬茶業組合総務部長)を「指導官」に据え、同三十一年ごろから本格的に事業着手。既存のタバコ畑を茶畑に移行させ、未開の山林を次々と開拓していった。

高瀬茶の草創期・昭和30年代後半の茶畑。後方の山林も後の構造改善事業で開墾され、現在は一面の茶畑が広がっている=高瀬茶業組合提供
高瀬茶の草創期・昭和30年代後半の茶畑。後方の山林も後の構造改善事業で開墾され、現在は一面の茶畑が広がっている=高瀬茶業組合提供

 昭和三十三年、初めて出品した県茶品評会でいきなり最高賞の農林大臣賞を獲得した。組合員の士気が高まったのは言うまでもない。「農作物の出来は生産者の気持ちが何よりも重要だから」。初めの一歩でつかんだ成果が事業を軌道に乗せたと宮崎さんは振り返る。「大きかった。これはいける、と確信した」。

 以降、昭和三十六年には四国茶品評会、同四十年には関西茶品評会でも最高賞を射止めるなど、高瀬茶の名は高まり続ける。

 しかし、道程は平たんではなかった。高瀬茶の歩みは干害との戦いを抜きには語れない。

 雨量が少なく蒸し暑い讃岐路の夏。昭和三十七年には十ヘクタールが枯死するなど、渇水被害は悩みの種。国の補助を得て、スプリンクラーによる灌(かん)水(すい)方式を取り入れた昭和五十年代以降、やっと安定した栽培が可能になった。

干ばつ対策のためスプリンクラーの配管工事に着手した昭和51年ごろ。以降、降水量に関係なく安定した栽培が可能になった=高瀬茶業組合提供
干ばつ対策のためスプリンクラーの配管工事に着手した昭和51年ごろ。以降、降水量に関係なく安定した栽培が可能になった=高瀬茶業組合提供

 開拓から四十五年。高瀬茶は押しも押されぬ一流ブランドに育った。「何度でもおかわりしたくなる味と自負しています。他県からの問い合わせも多いですよ」と高瀬茶業組合。地域おこしの夢を賭(か)けた熱意はしっかりと実を結んでいる。

 ただ、後継者不足という課題は残る。組合によると、現在の栽培面積は約百二十ヘクタール。昭和五十年代半ばの最盛期には百五十ヘクタールを超えていたというから、目減りは否めない。農家数こそ百三十戸前後で推移しているが、組合では「作業の共同化や機械化を進め、後継者が育つ環境整備に努めたい」と対策を急いでいる。

 草創期から茶づくりに情熱を注ぎ、後進に道を譲った宮崎さんは地元の二ノ宮公民館長に就任。小学校の特別授業で教壇に立つ機会もある。教えるのは「おいしいお茶のいれ方」。伝えたいのは二ノ宮の誇り。

 一線を退いた開拓者の胸には、ずっと大切にしてきた言葉が刻まれている。

 「これからも頑張ってください。中身が良ければ、外観はおのずとできてきますから」。昭和四十年、関西茶品評会の「戦勝報告」で県庁に出向いた際、当時の金子正則知事(故人)が笑顔で語った言葉という。

 一番茶の摘み取りは今が盛り。きょう一日は八十八夜。

文・黒島 一樹(観音寺支局) 写真・久保 秀樹(写真部)