アッケシソウ(県内各地)

2001年11月5日

消えゆく塩田の証人

 香川と北海道を結び付ける謎(なぞ)の赤い草―。

 時代に翻弄(ほんろう)され姿を消す悲運の赤い草―。

 主人公はアッケシソウという赤い草。その物語をミステリー風に仕立てるとこうなる。

坂出市王越町の木沢塩田跡。左から1994年11月、2000年10月、01年11月。アッケシソウの群生地がただの湿地のように姿を変えている
坂出市王越町の木沢塩田跡。左から1994年11月、2000年10月、01年11月。アッケシソウの群生地がただの湿地のように姿を変えている

 アッケシソウは種子が成熟する秋になると、種の入った上部の節が真っ赤に色付く。その光景は紅葉のようだ。見た目は多肉質で節くれ立ち、サンゴにも見える。サンゴソウやヤチ(谷地)サンゴの別名もある。

 一八九一年に北海道東部の厚岸町で発見されたことから、アッケシソウの名前が付いた。塩を好む性質があり、海水と淡水がほどよく混じる海岸や湖岸に生える。

 香川大名誉教授の国分寛さん(75)によると、アッケシソウは道東以外は香川県と愛媛県にしかないという。県内は一九七一年当時に高松、坂出、丸亀、宇多津、詫間、小豆島などで確認された。いずれも根付くには格好の塩田地帯である。

 さて、なぜ道東に自生するアッケシソウが香川に存在するのか?

 有力な説が二つある。塩の交易が介在している点では共通だ。

 北海道交易を支えた北前船。讃岐の塩田で生産した塩も江戸時代から明治初めにかけて、北海道まで船で運ばれた。

 第一の説。北海道で買い付けた昆布やニシン粕(かす)を入れた荷袋に種が付着していた。あるいは塩を降ろした後、船のバランスを取るために積んだ砂に種が入っていた。

 第二の説。北前船の乗組員が「なんてきれいな草なんだ」と北の大地を赤く染めるアッケシソウを持ち帰った。

 そして北海道から塩田に種が持ち込まれたわけだ。考えにくいが海流や渡り鳥の説もある。

 いずれの説にも証拠はないが、国分さんは種の耐久性が弱いことから、種を落としてしまう以前の赤い状態で、人間により運ばれたとみている。もっとも、なぜ香川と愛媛だけにあるのかは謎が残ると首をひねる。

 こうして、はるばる北海道から香川にもたらされたアッケシソウがわが世を謳歌(おうか)したのは、塩田が廃業になった数年後の七五年ごろまで。

 塩田跡を一面の赤いじゅうたんに変えたアッケシソウは、跡地の土地開発が進むのに合わせて、途端に姿を消した。

 国分さんの調べでは、八八年に確認できたのは高松市屋島西町、坂出市王越町、詫間町の三カ所だけになっていた。この間、市民らからの保存を求める声も盛り上がらなかったという。

県内にまだ残されている数少ないアッケシソウ=詫間町(資料)
県内にまだ残されている数少ないアッケシソウ=詫間町(資料)

 現在では屋島のアッケシソウは大型スーパーの進出で失われ、高松市の緑地公園にほんの一部が移されている。詫間町でも有志がアッケシソウを保存し、いまは工業団地内の工場の一角にわずかに守られている状態。宇多津町は復元塩田の側で栽培を試みている。

 数年前まで唯一、塩田跡地に残っていた坂出市の木沢塩田跡では全滅の恐れが大きい。二〇〇〇年に所有者が変更した際に排水管理がおろそかになり、塩田跡が水浸しとなった。アッケシソウは激減し、今年はまったく姿が見当たらない。

 「もう県内ではなくなったと同じ」と国分さんは語る。「今後は小中学校の教材として伝えられるんだろうね」

「塩田の記憶」を伝えようとアッケシソウを教育に取り入れる動きもある=高松市屋島西町、屋島西小学校
「塩田の記憶」を伝えようとアッケシソウを教育に取り入れる動きもある=高松市屋島西町、屋島西小学校

 かつての塩田のまちにある屋島西小学校(高松市屋島西町)は総合学習の一環として、四年生が校内でアッケシソウを栽培している。アッケシソウから塩田と地域の歴史を学び、伝えていこうという新しい動きだ。

 アッケシソウの水槽の近くには、こんな看板を掲示している。

 「塩田の証人を守ろう」

文・福岡 茂樹(報道部) 写真・鏡原 伸生(写真部)