園の州(そのす)(丸亀市)

2002年4月29日

貝減り、伝説ひっそり

古くから潮干狩りの穴場として活況をみせていた「園の州」。近年はアサリの激減が目立ち、波状が残る表面には無数の貝がらが堆(たい)積している=丸亀市本島
古くから潮干狩りの穴場として活況をみせていた「園の州」。近年はアサリの激減が目立ち、波状が残る表面には無数の貝がらが堆(たい)積している=丸亀市本島

 江戸時代の塩飽水軍の本拠地として知られる本島を中心に、瀬戸内海の二十八の島々から成る塩飽諸島。約四百年を経た現在も、島と島の間を縫うように一日約千便もの船が行き交い、古(いにしえ)の交通の要としての趣を残す。

 この海域に潮差が最大になる大潮の時、二、三時間ほど海面に姿を現す白い砂浜―。それが「園の州(そのす)」と呼ばれる海底地形。本島と広島の間に位置し、広さは南北約二キロ、東西約八百メートルで、傾斜が複雑な遠浅の地形のため、潮が満ち始めるとあっという間に浸水してしまうという地元住民さえも戸惑う難所だ。砂州が形成されたゆえんは明らかでないが、そんな自然の神秘が生んだ「園の州」には、地元住民に語り継がれている、ある悲しい物語がある。

本島と広島の間に姿を現した広大な砂地。夕日にきらめき、まるで波間に浮かぶ島のよう=丸亀市本島
本島と広島の間に姿を現した広大な砂地。夕日にきらめき、まるで波間に浮かぶ島のよう=丸亀市本島

 伝説の舞台は、今から三百五十年ほど前の本島北西部の福田地区―。

 生活に窮する村人たちを尻目に、福田又次郎という代官は厳しく年貢を取り立てていた。耐えかねた村人たちは三月三日のひな節句の日、代官を沖合の砂浜へ潮干狩りに誘い出し、ごちそうを並べて酒盛りを開いた。酒に酔って眠った代官を一人残し、村人たちはこっそりと船で帰る。しばらく経(た)って目を覚ますと、砂浜は跡形もなく消え、辺りは一面青い海。代官は声を限りに叫んだものの帰るすべはなく、ついに溺(おぼ)れて死んでしまう。一方、父が置き去りにされたことを知った代官の一人娘・お園(その)は急いで岬にかけ上り、断崖(だんがい)に突き出た松の木にすがって沖を見つめ、一晩中泣き明かす。果てには、父の後を追って崖(がけ)から身を投げた。

1934年ごろの、こがれ松。戦後までは存在し、松くい虫の被害で枯死したと伝えられている(資料)
1934年ごろの、こがれ松。戦後までは存在し、松くい虫の被害で枯死したと伝えられている(資料)

 以後、お園が嘆きたたずんだ松を「こ(焦)がれ松」、沖の砂浜を「園の州」と呼ぶようになり、代官を殺したことを悔やんで三月三日にひな節句をしなくなったとか。現在でもその風習は受け継がれている。

こがれ松のあった断崖下に位置する石碑。お園さんが身を投げたとされるこの地は、当時海だった=丸亀市本島
こがれ松のあった断崖下に位置する石碑。お園さんが身を投げたとされるこの地は、当時海だった=丸亀市本島

 自然現象が生んだ悲しい結末。その地となった州は、塩飽の島の漁業関係者にとっては大切な入会地とされ、昔から、タイラギやマテ貝、アサリなどの宝庫となっている。その環境に変化が現れている。

 「十年前までは、干潟が真っ黒になるほど潮干狩り客でにぎわっていた」と語る丸亀市役所本島支所の吉田智彦さん(64)。かつて、園の州は伝説の地としてだけでなく、知る人ぞ知る潮干狩りの穴場だった。しかし近年は、アサリが採れないことから、潮干狩り客が激減。貝の減少の理由について、周辺での海砂採取による生態系の変化が要因だとする説もあるが、「ピーク時の過剰採取と、利用者減による土の掘り返しが少なくなったこと。土が固くなると、稚貝がもぐりにくくなる」という。

地図

 干潮時には無数のカモメが飛来する美しい園の州。漁船で五分ほど走ると、ぽっかりと現れた砂浜にたどり着く。実際に降り立って、入念に砂を掘ってみたものの、確かにアサリの姿はほぼ皆無に等しい。この“異常事態”こそ、希少価値の高い「園の州」が私たち人間へ向けて発信しているシグナルなのかもしれない。

文・荻田 晃子(観音寺支局) 写真・久保 秀樹(写真部)