芸品

桐下駄(志度町)

2001年1月22日

逆風に気吐く職人技

父から技術を受け継ぎ、桐下駄職人としてこの道40年の笠井さん。伝統技を残したくても残せないのが大きな悩みだ=志度町
父から技術を受け継ぎ、桐下駄職人としてこの道40年の笠井さん。伝統技を残したくても残せないのが大きな悩みだ=志度町

 カラン、コローン―。下駄(げた)の音が響く。キュッと締まった鼻緒に素足を通すと木の感触が心地よい。

 「四十五年ほど前かのう。買い物へも、近所の散歩へも、みんな下駄を履いとったわ」。志度町の砂山長三郎さん(65)は「もちろん、夏は浴衣、正月は着物に、下駄を合わせるのが定番やった」と、懐かしそうに振り返った。

 日本人の足元を彩ってきた下駄。志度町は、全国シェアの六割以上を占める桐(きり)下駄の産地だ。

 なぜ、志度町に桐下駄なのか。歴史をひもとくと、一人の人物が浮かび上がる。長三郎さんの祖父、故砂山房太郎さんがその人。一九〇七年に志度町で下駄の製造業を開業した房太郎さんは、職人の育成や一大消費地・大阪への販路開拓に取り組み、日本一の産地の基礎を築いた。

 名実とも桐下駄が全国区となったのは五五年ごろ。戦後、空前の下駄ブームが追い風となった。町内の製造業者は約三十軒、職人約二百人、月産二十万足、年商二億円に上ったという。

桐下駄の製造は、目合わせ、鼻緒の穴あけなど約40工程を経て完成する。その中で、経木張りは最終段階の作業だ
桐下駄の製造は、目合わせ、鼻緒の穴あけなど約40工程を経て完成する。その中で、経木張りは最終段階の作業だ

 だが、隆盛もつかの間。ニューモードが、桐下駄業界をのみこんだ。革靴の普及や道路のアスファルト化など生活様式が様変わり。下駄は日常品から嗜好品となり、六〇年代後半から七〇年代にかけて廃業が相次いだ。創業者の砂山家も例外でなく、三代目となった長三郎さんは、二十年ほど前に店をたたんだ。

 「下駄離れで業界は、かなり厳しい状況。全国的にみて、組合の存続自体も危ういですね」。志度桐下駄製造組合の山西就治さん(44)に、危機感が募る。

 現在、組合加盟数は五軒、職人約四十人、月産四万足。戦後の最盛期と比べると、五分の一程度の規模となった。安価な中国産下駄が、店頭に並ぶようになったのも、志度下駄の低迷に追い打ちをかけた。

 山西さんはいう。「吸水性に優れ木目も美しい桐下駄は、肌触りもよく軽い。他の雑木とは比べものにならん」。桐下駄が湿気の多い日本の風土に合っているのも事実だ。

1960年ごろ、志度町内のあちこちで見られた桐材の輪積み風景。天日にさらすことで、木のあくや湿気を取り除いていた(山西就治さん提供)
1960年ごろ、志度町内のあちこちで見られた桐材の輪積み風景。天日にさらすことで、木のあくや湿気を取り除いていた(山西就治さん提供)

 今も、山西さんの製造工場では、六人の職人が独特の工具を手に、木目に厳しい視線を注ぐ。この道四十年の笠井正夫さん(68)は「手作りは機械では絶対まねできん細かな部分がある。自分が仕上げた下駄を履いてもらうんが、一番の励みですわ」。年季の入った職人技は、芸術といっていい。

 かつて、町内のあちこちに、高さ四メートルほどの桐材の輪積みがあった。が、業界の衰退とともに、その光景は消え、伝統技を受け継ぐ後継者もいなくなった。

 手作りの桐下駄が持つ温(ぬく)もりと繊細さ。そこには、日本文化を守る職人の心意気が込められている。「技を受け継いでくれる人がおれば、惜しみなく伝える。だが、業界自体が低迷しとるし、無理強いはできんしの」。笠井さんは桐下駄を手につぶやいた。

文・藤田 敦士(報道部) 写真・山崎 義浩(写真部)