お大師山の火祭り(大川町)

2000年8月28日

天焦がす紅蓮の長蛇

 「山裾(すそ)から峰を走って頂上に伸びた紅蓮(ぐれん)の長蛇にも似た火焔(かえん)の姿は、壮観というほかはないものだった。森も田も畑も家も道に集う人たちも、ただ一様に赤く映し出された」

島木健作が「紅蓮の長蛇」と表現したお大師山の火祭り。8月20日午後7時半、虚空蔵山一帯は赤々と燃え上がる=大川町田面
島木健作が「紅蓮の長蛇」と表現したお大師山の火祭り。8月20日午後7時半、虚空蔵山一帯は赤々と燃え上がる=大川町田面

 東讃の農村を舞台にした島木健作(一九〇三―四五年)のベストセラー「生活の探求」に描かれた盆行事の一コマ。昭和初期、平井町(現三木町)で日本農民組合書記として奔走した島木こと朝倉菊雄は、目に焼き付いた大川町田面(たずら)の「お大師山の火祭り」を六十年前にこう表現した。「二十日は朝から賑(にぎわ)った。山の下に通ずる道路には露店が店を張り、浪花節の小屋掛けさえ立った。この村のお大師さんの火というものは、県下に広く聞こえている」と当時のにぎわいを伝えている。

 田面地区の虚空蔵山(こくうぞうさん)(通称お大師山)では毎年八月二十日、大国木、阿条谷の両自治会の手で火が焚(た)かれる。山には百五十年ほど前の江戸後期、地元有志によってまつられた石仏が点在。西から東へと峰伝いにミニ四国八十八カ所を形づくる。宵闇(よいやみ)の中、年に一度、石仏と石仏をつなぐ約二百カ所で肥え松が焚かれ、その炎は赤々と山全体を包み込む。

「3、2、1」。小学生の手で行われた点火セレモニー。大国木には現在、4人の小学生しかいない
「3、2、1」。小学生の手で行われた点火セレモニー。大国木には現在、4人の小学生しかいない

 火は弘法大師をしのび、無病息災を願って毎年、焚かれるという。いつごろ始まったか定かではない。大国木自治会長の杉原勝さん(68)によると、大正末期に一度だけ焚かなかった年があったが、その年、赤痢が大流行。以後、戦争中も地域の人たちの手で絶やすことなく続けられた。

 だが、地域の過疎化や市町合併に伴って、「伝統の火」の存続に危機感を抱く人も少なくない。火をつける肥え松の準備や下草刈りなど、「高松へ出る人が増え、最近の作業はちょっときつい」と前自治会長の多田圭介さん(65)は訴える。山の手入れは昔ほど十分とはいえない。よく燃えた肥え松も量が減り、代わりに外材を多く使う。そのため、火が燃える時間は一、二時間から三、四十分ほどになり、周辺からは昔ほど、きれいに見えなくなった。

 「五町が合併しても、今のように火祭りを続けたい。オハツカノヒ(火祭り)がなくなると寂しい。地域が主張しなければ、独自の伝統文化は衰退する」

地図

 そんな思いから、多田さんは石仏をカメラに収めたり、古文書を繰り始めた。昔から「伝統」と聞かされてきた火祭りの由来をきちんと後世に残すためだ。平成十年にはお大師山の火祭り保存会が発足。黄色いそろいのTシャツもつくり、県内唯一の火祭り保存へ機運を盛り上げる。

 「かつてのように、にぎわいを復活させよう。地域をもっとPRしよう」。地域のお大師信仰の象徴から観光イベント化への道。ジレンマを抱えながら、住民たちの心の中の火は燃え尽きることはない。

文・山下 和彦(報道部) 写真・鏡原 伸生(写真部)