並み

有明浜の銭形砂絵(観音寺市)

2000年7月17日

諸説紛々 謎の地上絵

 ここは観音寺市が誇る景勝地・琴弾(ことひき)公園。琴弾山を登って山頂の展望台から眼下を見下ろすと、見事な松林の向こうに美しい有明(ありあけ)浜。穏やかな燧灘(ひうちなだ)に浮かぶ瀬戸の島々。絶景だ。

夕映えの有明浜。グリーンの光に照らされて「寛永通宝」が鮮やかに浮かび上がる=観音寺市有明町
夕映えの有明浜。グリーンの光に照らされて「寛永通宝」が鮮やかに浮かび上がる=観音寺市有明町

 松林の中央部には巨大な「寛永通宝」の文字がくっきりと掘り込まれている。東西百二十二メートル、南北九十メートル、周囲三百四十五メートル。各種コマーシャルやドラマ「銭形平次」のタイトルバックに使用され、全国的にも知られる有明浜の銭形砂絵。見事な砂のオブジェは観音寺のランドマークだ。

 砂絵のルーツは謎(なぞ)に包まれている。いつ、だれが、何の目的で築いたのか。研究者の間でも諸説紛々、入り乱れているが、公的な文書類が残っていないため確たる裏付けはない。これほど大掛かりな造型にもかかわらず、出自はまったく不明。まるでナスカの地上絵だ。

 「寛永十(一六三三)年、当地を治めていた丸亀藩主の生駒高俊公が領内巡視の際、土地の村人たちが領主歓迎の気持ちを表すため一夜にして造りあげた」。展望台の広場にある立て札にはそう記載されている。

 市の観光パンフレットにも立て札と同様の説明が載っている。しかし、寛永通宝が流通したのは三年後の寛永十三(一六三六)年からであり、生駒公が来訪したという記録も残されていないという。立て札説はどうも分が悪そうだ。

 次は江戸末期の一八五五年ごろの造営説。観音寺市史(昭和三十七年編さん)によると、幕府が諸藩に沿岸警備の増強を命じたのを受け、丸亀藩は荘内と有明浜の二カ所に砲台を築造することになり、京極朗徹公が来訪した際に普請奉行が「藩主の一興に供せんがため掘らせた」という。

大正末期の砂絵。現在よりもかなり浅く、周囲の松林もまばらだ(観音寺市文化財保護協会編「ふるさと観音寺」より)
大正末期の砂絵。現在よりもかなり浅く、周囲の松林もまばらだ(観音寺市文化財保護協会編「ふるさと観音寺」より)

 二つの説には実に二百年以上の開きがある。さらに領主を歓迎するのに銭形を掘った意味も理解に苦しむところ。「普通は生駒家の家紋などにするのではないか」。砂絵研究をライフワークにしている元観音寺市職員香川和昭さんも疑問符をつける。

 あっと驚く新説を発表して話題を集めた研究者もいる。「銭形は一夜にして造られたのでなく、実は『造り変えられた』」。高瀬町の森田泉さんの説だ。

 森田説によると、砂絵はもともと銭形ではなく、豊臣家の象徴の「ひょうたん」が描かれていた。当時の生駒家は親豊臣派であり、徳川幕府になってからも豊臣家の再興を願って倒幕の機会を待っていたという。

 寛永十年に幕府の巡検使が訪れることになった。しかし、倒幕のシンボルである「ひょうたん」を見せることはできない。このため、急きょ現在の銭形に造り変えた。「きな臭い背景を抹殺するための権力が働いたため、公的な文書が残っていないのではないか」と森田さんは分析する。

 研究者たちの追究は今日も続く。「謎は謎のままの方が面白いような気もします」とは観音寺市の岡田唯男商工観光課長。謎のベールは魅力的な研究テーマであり、観光戦略の重要なポイントでもあるようだ。

風雨にさらされた砂絵を修復する恒例の「砂ざらえ」=資料
風雨にさらされた砂絵を修復する恒例の「砂ざらえ」=資料

 毎年春と秋に実施する砂絵の修復作業、砂ざらえは市民参加の恒例行事。地元の中学生らが奉仕の汗を流す。市民の手で守り続けてきた「寛永通宝」。市職員の名刺には、夕映えの有明浜に浮かび上がる砂絵が誇らしげに印刷されている。

文・黒島 一樹(観音寺支局) 写真・久保 秀樹(写真部)