並み

オーテ(高松市女木町)

2000年1月24日

共に生きる「命の砦」

 高松港から約二十分。心地よい瀬戸内の波に揺れ、かつて鬼が住んだと伝えられるロマンの島、女木島に渡った。港に近付くと、十年にオープンした「鬼ケ島おにの館」と東西約五百メートルにわたって延びた石垣、そこからちょこんと屋根を出した家々がまず目に飛び込んでくる。

落花生を天日干しする昭和30年ごろの浜辺とオーテの様子。手前は壺井栄(永本実さん提供)
落花生を天日干しする昭和30年ごろの浜辺とオーテの様子。手前は壺井栄(永本実さん提供)

 「この石垣はオーテというてな、冬の季節風から家々を守る防風防波壁の役目を果たすんじゃ」と女木校区連合自治会長の高岸弥一さん(76)。「強風で波のしぶきが玉のようになって海から吹き付ける。大きく手を広げて家々を守っているように見えるでしょ」とその名の由来を話す高岸さんは、どこか誇らしげだ。

 女木島はおにの館のある東浦が大手、西浦がからめ手。ここ東浦では十二月から二月にかけ、北西の季節風が山に当たり、向きを変えて吹き降ろす。島人たちが「オトシ」と呼ぶその風は年に数回程度。いつ吹くとも分からない自然の脅威に備え、二段、三段と人々は石を積み上げた。

ずらりと並ぶオーテ。島人たちが築き上げたその防風防波壁は、家々の屋根まですっぽり覆い尽くす
ずらりと並ぶオーテ。島人たちが築き上げたその防風防波壁は、家々の屋根まですっぽり覆い尽くす

 眼前に広がる海、のどかに行き交う人々の表情からは想像もできないが、そこに暮らす人たちにとってはまさに「命の砦(とりで)」だったに違いない。

 一説には、江戸時代初期には既にあったとされるオーテだが、近年ではサッシ窓の普及でその必要性が薄れてきた。昭和二十九年を最後に新たに築かれたオーテはない。そのころから昭和五十年代後半にかけ、相次いで護岸整備も進んだ。威容を誇ったその姿は変遷し、コンクリートに埋まった。

 「護岸ができるまではほら、潮が引いた浜辺で落花生などを天日干し。満潮になるとオーテまで海水が押し寄せていた」。平成元年から始まった瀬戸の鬼おにまつり推進委員を務めた永本実さん(73)が差し出した一枚の写真には、そんな島の風景がくっきりと写し出されていた。

風のないのどかな冬の日、オーテの間の細い路地には素朴な人情が行き交う。140世帯のうち、実に40世帯以上が65歳以上の独り暮らしだ=高松市女木町
風のないのどかな冬の日、オーテの間の細い路地には素朴な人情が行き交う。140世帯のうち、実に40世帯以上が65歳以上の独り暮らしだ=高松市女木町

 瀬戸内の地域景観に詳しい建築家の青木光利さん(55)は「西海町(愛媛県)の外(そと)泊(どまり)ではシマキといって北西の風を防ぐための防風垣がある。波静かな瀬戸内の島で防風のための石垣を築くのは珍しい」と話す。

 自然と対(たい)峙(じ)し、自らの手で家々と海を隔てた島人たち。護岸道路が整備され、暮らしは随分と便利になったが、オーテの補修はいまも続く。特異な石垣景観は、その役割を半ば終え、鬼の住み家を思わせる観光資源として新たな価値を見いだしつつある。

 「家の中からは全く海が見えんが、オーテのおかげで安心して暮らせる」と永本さん。海に面した地なら、海を望んで暮らしたいと願うのは、都市化の波に洗われ、本当の自然を知らない者の驕(おご)りなのかもしれない。

文・山下 和彦(報道部) 写真・山崎 義浩(写真部)