並み

こんぴら道と並び灯籠(琴平町)

2002年2月25日

夢の跡は生活の中に

夕闇(やみ)とともに毎夜浮かび上がる丸亀街道の並び灯籠。かつてのメーンストリートもいまでは、生活道の一部に。振り返る人も少ない=琴平町富士見町
夕闇(やみ)とともに毎夜浮かび上がる丸亀街道の並び灯籠。かつてのメーンストリートもいまでは、生活道の一部に。振り返る人も少ない=琴平町富士見町

 日が西に沈むころ、商店街の光にまぎれ、控えめに明かりをともす並び灯籠(とうろう)がある。帰宅を急ぐ会社員や高校生らにとって、その明かりは見慣れた町の風景の一部。すっかり、生活の中に溶け込んでいて、だれひとり、気にとめるふうでもない。

 JR琴平駅から二つ目の辻(つじ)、右手に高灯籠を見過ごしながら、左に折れると、十八基の灯籠が、ほのかな光を放っている。もう、かれこれ三十年ほど、それも毎日…。

丸亀街道の中間地点、与北の茶堂跡。こんぴら街道最大の灯籠がいまも残る。往路と復路の参拝者たちが足を休め、お国自慢や金毘羅参りへの思いを語り合ったという=善通寺市与北町
丸亀街道の中間地点、与北の茶堂跡。こんぴら街道最大の灯籠がいまも残る。往路と復路の参拝者たちが足を休め、お国自慢や金毘羅参りへの思いを語り合ったという=善通寺市与北町

 わき道のように見えるこの道。実は江戸上方から丸亀港、郡家、与北、公文を経由し、多くの庶民を金毘羅参りへと導いた「丸亀街道」のメーンストリート。「こんぴら五街道」の中でも、一茶や弥次さん、喜多さん、そして森の石松らが歩いたという最もにぎわった街道で、その終着地点に並び灯籠はある。

 江戸火消四十八組から寄進されたのが契機となって、嘉永四(一八五一)年から慶応三(七六)年にかけて、これら並び灯籠が奉納された。以後、高灯籠とともに丸亀港からおよそ三里の道のりを歩いた参拝者を、いの一番に迎え入れる門前の町のシンボリックな存在に。

1940(昭和15)年に撮影された富士見町の並び灯籠(「町史ことひら」から)
1940(昭和15)年に撮影された富士見町の並び灯籠(「町史ことひら」から)

 琴平町史編集委員会委員長を務めた佐藤吉隆さん(76)によると、町内の並び灯籠は丸亀街道、多度津街道、伊予土佐街道の終着地点にそれぞれ残っているという。銘文を見れば、寄進者は全国規模。当時の金毘羅信仰の盛況ぶりがうかがえる。「富士見町に残る丸亀街道の灯籠は戦前まで道の両サイドに三十四基ずつ。だが、引き揚げ者の住宅地確保のため、一部は一九四七(昭和二十二)年、阿波街道の終着地点でもある御神事場内に移された」と佐藤さん。いまは東側に十八基、西側に六基が残るのみだ。

 「こんぴら五街道はほかの街道筋と比べて、道標や灯籠が比較的多く残る。それだけ、金毘羅信仰が大切にされてきた証拠でしょう」とは、讃岐の旧道をくまなく調査した引田町歴史民俗資料館の徳山久夫館長。遠く離れた引田にも、道標は建つという。

こんぴら五街道と並び灯籠
こんぴら五街道と並び灯籠

 歴史ロマン、そして金毘羅信仰に満ちた県内の多くの旧道。鉄道開通や新道の発達とともに、やがてその役割は終焉(しゅうえん)を迎える。消えた道もあるが、生活道として暮らしに溶け込む風景も、まだまだ身近な場所に残っている。

 狭い路地や道端に残る金毘羅灯籠、道標…。普段、何げなく見過ごしている風景の中に、「一生に一度は」と夢を抱いた先人の思いを感じ取りたい。

文・山下 和彦(生活文化部) 写真・山崎 義浩(写真部)