らし

両墓制(塩飽諸島など)

2002年3月11日

火葬や過疎化で変質

火葬の普及で消滅しつつある両墓制。墓地には、社のようなものが設けられた埋め墓(左)と参り墓が混在している=詫間町の粟島
火葬の普及で消滅しつつある両墓制。墓地には、社のようなものが設けられた埋め墓(左)と参り墓が混在している=詫間町の粟島

 「遺体を埋葬する墓」と「霊魂を祭る墓」―。そんな二つの墓を作るならわしは「両墓制」と呼ばれ、県内では、塩飽諸島をはじめ、三豊、仲多度両郡の一部の地区に偏在している。

 遺体を土葬する「埋め墓」は、主に海岸や山の中腹など、人里離れた場所に作られ、周囲に青竹を立てたイガキ型やうずたかく石を並べる積み石型など、さまざまな形態が存在する。一方、石塔を建てて霊を祭る「参り墓」は通常、集落に近い所に設けられるが、中には二つの墓が隣接している例もあり、地域によってさまざまだ。

 そんな各地で様相が異なる両墓制については、長年、数多くの民俗研究者が調査に着手。起源をめぐって▽埋葬と祭儀が区別された「古墳時代」からの名残▽遺体は穢(けが)れたものであり、別の清浄な空間に祭祀(さいし)の場を作ろうとする「けがれ」思想との関連▽遺体を数年後に掘り出し、参り墓に改葬する「二重葬制」の反映―など、さまざまな説が唱えられてきた。が、近年では、室町時代後期から江戸時代中期の、供養の祈念に石塔を建てる風習の伝播(でんぱ)で、石塔建立による村共有の墓地の占有を防ぐため、埋葬地と祭る場所を分けたのではないか―とする考え方が優勢となっている。

古くからの埋め墓が数多く残る。まるで簾(すだれ)を垂らした小屋が立ち並んでいるようだ=詫間町の志々島
古くからの埋め墓が数多く残る。まるで簾(すだれ)を垂らした小屋が立ち並んでいるようだ=詫間町の志々島

 そんな謎に満ちた風習は、現在、崩壊の一途をたどっている。その顕著な例が、多度津港沖に浮かぶ人口約百七十人の佐柳島。島の北部に位置する県の有形民俗文化財に指定されている長崎地区には、集落の近くに参り墓と埋め墓が隣接して存在する。しかし、近年の火葬の普及に加え、過疎化、高齢化の進行で、埋め墓に石塔が建ち並んだり、参り墓に骨が祭られるなど、従来の土葬の両墓制を維持するのが困難な状態にある。また、比較的、両墓制が残っているといわれる詫間町の粟島や志々島などでも、衛生面や景観の問題などで両墓制の姿は変質しつつある。

風波がうち寄せたら流出しそうな、海浜に位置する埋め墓=詫間町の志々島
風波がうち寄せたら流出しそうな、海浜に位置する埋め墓=詫間町の志々島

 「純粋な両墓制が残っている地は皆無に近い」と語る県歴史博物館の田井静明さん(40)。時代の流れとともに、葬制は土葬から火葬へと変化し、風習を受け継いでいく人々の世代も変わった。墓地の整理や移転などによって石塔墓の多くが整理されてしまうなど、両墓制を探る手がかりは消えつつある。「残されたものを探ることも大切。だが、今後は変化する墓制、葬制への人々の対応の仕方を記録しながら、現代社会の中での人々の『死』に対する考え方を把握していくことが重要なのではないか」と新しい観点にたった研究の必要性を強調する。

 時代の変遷とともに消えつつある民俗風習。葬制や墓制は変わっても、前世から受け継がれてきた信仰観や供養の思いは、きっと人々の心の中で生き続けていくのではないだろうか。

文・荻田 晃子(観音寺支局) 写真・久保 秀樹(写真部)