らし

四国鉄道発祥の跡(多度津町)

2000年6月5日

今も脈々“鉄道員(ぽっぽや)魂”

 明治二十二年五月。文明開化の足音とともに、SL(蒸気機関車)が、初めて讃岐の地を走った。開通区間は丸亀―琴平間の約十五・五キロ。一世紀以上にわたって続く四国鉄道の幕開けだった。

JR多度津駅近くにある蒸気機関車の「動輪」(写真上)と、昭和10年から45年まで活躍したSL「ハチロク」。四国鉄道発祥の地のシンボルだ。
JR多度津駅近くにある蒸気機関車の「動輪」(写真上)と、昭和10年から45年まで活躍したSL「ハチロク」。四国鉄道発祥の地のシンボルだ。
JR多度津駅近くにある蒸気機関車の「動輪」(写真上)と、昭和10年から45年まで活躍したSL「ハチロク」。四国鉄道発祥の地のシンボルだ。

 「百年以上も前のこと。多度津が四国の鉄道発祥地ということを、知らない人が増えるのは当たり前だろう」。多度津町の元国鉄職員、高畑俊雄さん(82)から、率直な言葉が漏れた。

 ごう音を響かせ疾走したSLは当時、大量輸送の交通手段として脚光を浴びた。JR多度津駅近くには、SL列車の「ハチロク」や「動輪」が飾られ、発祥地のシンボルとして風雨に耐えている。

 高畑さんもSLにあこがれて国鉄に入社した一人。昭和四十八年の退職後は、国鉄OBの仲間たちと、今も「ハチロク」の清掃に汗を流す。

 「このSLは私たちが生きた証(あかし)。それだけに少しでも、勇壮な姿を後世に残していきたい。それが今私のできることです」。高畑さんのSLを見つめる表情はどこか誇らしげだ。

 なぜ、多度津が発祥地なのか―。歴史をひもとけば、明治初期の多度津は海運が栄えた港町。丸亀港とともに、金刀比羅宮参りの船着場でもあった。

 その参拝客に着眼したのが、JR、国鉄の前身「讃岐鉄道」。実際には、伊予鉄道に次ぐ四国で二番目の開業だった。

 以来、一世紀余り。開通時から今に続く、四国鉄道の心臓部といえる「JR多度津工場」がある。車両を修理、点検する四国唯一の工場で、鉄道文化を支えてきた“生き証人”だ。

車両を修理、点検する四国唯一の工場「JR多度津工場」。車両に厳しい目を向ける従業員には、先人から受け継いだ“鉄道員魂”が宿っている=多度津町大通り
車両を修理、点検する四国唯一の工場「JR多度津工場」。車両に厳しい目を向ける従業員には、先人から受け継いだ“鉄道員魂”が宿っている=多度津町大通り

 終戦後の昭和二十二年には、従業員二千人を超えたマンモス工場。町は、「鉄道マン」であふれ、多度津は名実とも「鉄道の町」だった。

 「修理作業は、いつも油まみれ。だが、自分たちが手掛けた車両が走る姿を見ると、わが子のように思えましたね」。工場で約四十年間勤めた多度津町の渡辺修さん(74)は、現役時代を振り返る。

 時は流れ、工場にも機械化、合理化の波が押し寄せた。現在の従業員は約百三十人。多度津工場技術センター科長の明比博文さん(42)は「機械化が進んだ今でも、手仕上げの工程は必要」という。歴史とともに受け継がれた"鉄道員魂"は健在だ。

 蒸気機関車からディーゼル機関車、そして無煙化の電車へ。近代化とともに鉄道車両は、姿を変え発展を遂げてきた。だが、自動車の普及に伴う新たな道路交通網の整備は、鉄道事業の運営に大きな課題を与えた。

明治30年代後半、多度津町内をもくもくと煙を上げ、疾走する蒸気機関車(四鉄史から引用)
明治30年代後半、多度津町内をもくもくと煙を上げ、疾走する蒸気機関車(四鉄史から引用)

 県内の一日平均の乗客数は昭和四十年に約七万九千人を数えたが、五十年には約六万七千人、六十年は約四万九千人と減少。ここ十年間は平成五年の約六万五千人がピーク。瀬戸大橋線開通などの影響で明るい兆しも見えた。

 しかし、「鉄道を取り巻く環境は依然として厳しいのでは」。思わず不安の言葉が口をつく高畑さんと渡辺さん。だが、言葉は違えども思いは一つ。「鉄道文化を後世に」。過去から現在、そして未来へと続くレールが、「鉄道マン」の誇りを運んでいる。

文・藤田 敦士(生活文化部) 写真・山崎 義浩(写真部)