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豊稔池(大野原町) 威風堂々、山間の古城
深い山間にそびえ立つ豊稔池堰堤。豪雨の後にはサイフォンが機能し、力強い瀑布(ばくふ)が見られる(資料)
深い山間にそびえ立つ豊稔池堰堤。豪雨の後にはサイフォンが機能し、力強い瀑布(ばくふ)が見られる(資料)

 なぜこれほど独特の形をしたダムが、この山中に作られたのだろう。しかも日本でただ一つ。

 大野原町のほぼ真ん中を南北に貫く県道8号。南に車を走らせながら五郷小を過ぎたところで9号線に移り、川之江方面へ。山間のくねった道をしばらく行くとその偉容を現す。まさに古城。初めて見たときは圧倒された。

 満々と水をたたえてそびえ立つ豊稔池のアーチダム。貯水量百五十九万トンを擁する農業用ため池が作られたのは昭和初期のこと。地理的に水利の便が悪かった大野原町では干ばつが絶えず、農民は水源確保に頭を悩めていた。堰堤(えんてい)の高さ三十メートル、長さ百二十八メートルの巨大プロジェクトは、水不足に悩む地域農民による力と汗の結晶だった―。

 ・三年に一度の干ばつ/・あえぐ農民、果敢な水との闘い/・急ごしらえの井関池が決壊/・ダム築造技術の草創期/・常識をうち破ったダム形式/・高度な技術とパイオニア精神/・延べ十五万人の地元労力/・夜間講習で技能者養成/・実質三年八カ月、短期間の偉業/・日本ダム築造史に輝く金字塔

昭和の築堤工事。地元農民たちが力を合わせ、一つ一つブロックを積み上げていった=記念誌「豊稔池の築造」より
昭和の築堤工事。地元農民たちが力を合わせ、一つ一つブロックを積み上げていった=記念誌「豊稔池の築造」より

 「嫁にやるなよ大野原の里へ 夜も夜伽(よとぎ)のない里ぞ」。大野原で伝わる歌は、昼も夜もなく水の確保に奔走しなければならなかった様子を物語る。ため池築造は住民の悲願だった。工事が始まったのは一九二六(大正十五)年、まだ日本のコンクリートダムの築造技術は浅く、従来の技法を踏襲した土堰堤が支配的だった。

 わが国で初めての石積みマルチプル(数多くの)アーチダム。豪雨時には洪水を安全に堰堤から排出するため扶壁(ふへき)にはサイフォンを仕込んだ。貯水位が満水近くになると自然に放水、無人管理が可能だ。随所に斬新な設計を取り入れた。

 基礎工事は二六年四月一日に着工。石は堰堤近くの田野々地区などで切り出し、砂は豊浜と観音寺の間の海岸で採取して牛馬車で運搬していった。県営事業という形をとったものの、従事するのは地元の受益民。工事経験が浅く、当初は夜間に講習会を開いて技能者を養成したといわれる。日にも日にもコツコツと石を積み上げていく作業。自分たちの家を作る心境だったのだろうか。干害からの脱出を願った農民の力が結集され、工事は三年と八カ月で完成をみた。

 当初は地元の地名から「田野々池」と呼ばれていたが、完成間近の現地を視察した大内郡出身の三土忠造大蔵大臣が「豊稔池」と命名したという。「水不足に苦しむ大野原の農地がこの貯水池によって豊かに稔ることを願って」との由来は堰堤横の石碑にもある。

 毎年七月下旬、下流にある井関池の貯水量が三割を切ったころに行われる「ゆる抜き」は、西讃の夏の風物詩。轟音(ごうおん)とともにほとばしる水しぶきに、多くの見物人が魅了される。今年は井関池の水量が多く、豪快なショーは八月にずれ込むかもしれない。

 平成の大修復も無事終えたダムは、きょうも堂々とそびえ立っている。見上げれば、雲と時間だけが流れていく。「人間って小さいな」と思う一方、「人間って偉大だな」と思わずにはいられなかった。
 
文・村川 信佐(観音寺支局) 

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