武家屋敷(多度津町家中)

2001年3月5日

孤塁守る江戸の薫り

 「多度津の波止場には波が打ち付けて居た。波止場の中には達磨船、戦国船といふような荷物船が沢山入って居た。謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた」

 志賀直哉の代表作「暗夜行路」の一場面から、一昔前の港町の喧騒(けんそう)が聞こえてくるようだ。

時代とともに姿を変えてきた多度津町家中の町並み。その一角には、古き良き讃岐の面影が今も残る
時代とともに姿を変えてきた多度津町家中の町並み。その一角には、古き良き讃岐の面影が今も残る

 謙作は直哉自身だった。直哉がたたずんでいた多度津港から東へ一・五キロほど歩く。今風の住宅街から、趣の違った屋敷が目に飛び込んできた。瓦ぶきの大屋根に鮮やかな白壁、細い桟を組んだ連子(れんじ)窓。ここには今も江戸の薫りが漂っている。

 京極家・多度津藩の屋敷が軒を連ねた「家中の武家屋敷」。一八二七(文政十)年、四代藩主、京極高賢がここに藩邸を構えたのが始まりという。幕末のころにも百八十軒の武家屋敷があった。

 御家中(家臣)が住んでいたことから地名となった「家中」。ふと気が付くと、袋小路に迷い込んだ錯覚におちいる。一見行き止まりのように見える直角に折れ曲がった道は武家屋敷の名残でもある。

武家屋敷には江戸時代の武士の書簡が数多く残る。多度津藩史の意外な一面を知る手掛かりとの期待も膨らむ
武家屋敷には江戸時代の武士の書簡が数多く残る。多度津藩史の意外な一面を知る手掛かりとの期待も膨らむ

 「昭和の初めごろかな。わしの子供時代は、白しっくいが鮮やかななまこ壁や立派な武家屋敷が建ち並んどったわ」。築後百七十年を超える武家屋敷を代々受け継ぐ、富井潔さん(70)は懐かしそうに振り返る。

 風格漂う屋根瓦を見上げ、「維持するのは大変や。でもな、昔の文化、風情を残すのは大切なことやと思うんですわ」と富井さん。今では屋敷を一般に無料開放している。

 ただ、今残っているのはわずか五、六軒ほど。家中の威風を伝える風情は、富井さんの思い出となってしまった。

 戦後、日本人の生活は一変した。住宅に車、電化製品…。豊かさを手に入れる一方で、「家中」の風景は木造から耐久性のある鉄筋建てが主流となり、町並みから温もりと情緒を薄れさせた。

 多度津資料館の岡田博至館長(72)は「時の流れ」と前置きした上で話す。「古い建物は、何ともいえん情緒がある。だが、老朽化による修理代はかさむ一方やし。建て替えるのも世の常だろう」。残したいけど残しにくい内情が垣間見えた。

昭和初期ごろの多度津町家中の町並み(多度津町資料館提供)
昭和初期ごろの多度津町家中の町並み(多度津町資料館提供)

 冒頭のくだりには、続きがある。「停車場の待合い室ではストーブに火がよく燃えていた。其処に二十分ほど待つと、普通より小さい汽車が着いた。謙作はそれに乗って金比羅へ向かった」。小さな汽車は、香川で最初に鉄道を走らせた讃岐鉄道の丸亀―琴平間の汽車のことだ。

 大正時代の初めに多度津を訪れた直哉。当時の町並みには、江戸の風情が漂っていたはず。それが、直哉の目にどう映ったのだろうか。今、歴史を刻む武家屋敷を眺めると、そんな思いが頭をよぎる。

 近代化とともに、消えゆく古き良き讃岐の面影。「放って置けば、武家屋敷は消滅してしまうだろう。何とかして先人の遺産を残すことができればな」。富井さんと岡田館長が口をそろえる。屋根瓦を照らす穏やかな陽光が、春の訪れを告げていた。

文・藤田 敦士(報道部) 写真・鏡原 伸生(写真部)