男木島灯台(高松市男木町)

2000年9月18日

海域を守る島民の誇り

 男木港から石畳や石段が独特の景観を醸し出す路地を抜けて、島中腹の山道を二キロほど歩くと、浜辺の突端に総御影石づくりの素朴でロマンチックな灯台が視界に入ってくる。

1日約1200隻もの船が行き交う海域の安全を守り続ける明治生まれの男木島灯台=高松市男木島
1日約1200隻もの船が行き交う海域の安全を守り続ける明治生まれの男木島灯台=高松市男木島

 男木島灯台は、明治政府による日清戦争直後の海運助成策推進によって、備讃瀬戸海域の海上交通量が増加したことから、工期七カ月を費やして明治二十八年に設置、点灯された。高さは、十四・二メートルで、緑、白、赤の光で瀬の位置を示す。

 塗色せず地肌そのままの灯台は、長い年月を刻み穏やかな色合いに変色し、観光客らにやすらぎを与える。塗装を施していない灯台は、国内では山口県の角島灯台と男木島灯台の二カ所だけというから、それだけでも珍しい。

 男木島灯台の前に広がる備讃瀬戸は、一日約千二百隻の船舶が行き交う海域。しかも、浅瀬が多く、灯台のわずかな故障も事故に直結する。外見の優しさとは裏腹に、この灯台の重要性は明治時代から変わらず大きく、かつて常駐した職員の責任は重かった。

 昭和三十二年公開の木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の中で、男木島は舞台の一つとして登場した。主人公の灯台守の息子が、けがで危篤状態になったにもかかわらず、勤務のために見舞いにも行けない父親の苦悩を描く場面もあり、見る人の涙を誘った。

昭和62年まで灯台守が常駐。灯台守にとって新鮮な魚を手にいれる釣りも大切な日課だった(昭和57年、中村由信さん撮影)
昭和62年まで灯台守が常駐。灯台守にとって新鮮な魚を手にいれる釣りも大切な日課だった(昭和57年、中村由信さん撮影)

 「みんな映画の中のように大変な時代があった。この辺りは、濃霧がよく発生する海域で、昔は一晩中起きて石油を注いだり、レンズ磨きなどをしていたようだ」と話すのは前男木島観光協会長の松下豊数さん(77)。

 昭和六十二年に無人化されるまで、四家族が官舎に住み、昼夜交代で勤務した。そんな職員と島民との関係は深く、小学校の運動会や入学式など島の大きな行事には必ず灯台長を招いたという。

 「四、五年間勤務すると、島民みんなとなじみになった。灯台職員の子供たちも学校へ通うなど、家族ぐるみで付き合った。灯台職員が次の赴任地に行く時は、みんなが別れを惜しんで港に見送りにいった」と松下さんは当時を振り返る。

 灯台の敷地にある官舎は高松市が買い取り、平成六年に灯台資料館として生まれ変わった。瀬戸内海や全国各地の主な灯台の位置、男木島灯台の仕組み、男木島の歴史や観光の紹介をしたパネルや模型などを展示している。

官舎は資料館になり、大勢の観光客が訪れる
官舎は資料館になり、大勢の観光客が訪れる

 灯台の東側に続く砂浜は、夏になると白色の小さな花を付けるハマボウフウの群生地。近くには、シャワーなどを完備したキャンプ施設、通称タンク岩といわれる奇岩もある。地元の要望もあって、これらの観光スポットをつなぐ遊歩道の計画も持ち上がっている。

 高松へのフェリーの待ち時間に数人の島人と話をすると「灯台は自分たちの誇り。少しでも多くの観光客に見てもらいたい」という一言が必ず返ってきた。明治生まれの灯台は、いつまでも島の人々の心の中で光っている。

文・木下 亨(報道部) 写真・山崎 義浩(写真部)