法然上人の足跡(県内各地)

2001年4月23日

生きる意味説いた旅

 人はなぜ生きているのか、これからどうやっていけばよいのか―。先の見えない現代社会を生きる人々の悩み、苦しみは深い。そんな中、数百年の時を超えてなお、多くの人の心を癒(いや)し続ける言葉がある。

法然が讃岐の人々に教えを説いて回ったのは約800年前。今でも県内各地にゆかりの跡が残る=高松市仏生山町、法然寺
法然が讃岐の人々に教えを説いて回ったのは約800年前。今でも県内各地にゆかりの跡が残る=高松市仏生山町、法然寺

 「南無阿弥陀仏」。浄土宗を開いた法然(一一三三―一二一二年)は、「ただひたすらに仏に帰依(きえ)すれば必ず救われる」との教えを世に導いた。時は平安末期。戦乱や天災による社会的混乱の中、この六文字の教えは瞬く間に広まった。

 しかし、既成の仏教が危機感を抱いて念仏停止の弾圧を行い、法然は七十五歳の時に流刑。人生五十年の時代の七十五歳、流刑はほぼ死罪に等しかったが、「かえって遠くの人々に念仏を説くことができる」と逆に喜び、丸亀本島から讃岐に入ったという。

 満濃町を中心とした中讃地方には、法然上人が説法したとされる寺や仮宿などが数多く残る。同町文化財保護協会の近兼和雄さん(68)は昨年、各地に残る旧跡や伝説をまとめたマップを作り上げた。小松庄(現在の高篠)三福寺や生福寺、西念寺などを巡り、琴平には直筆の念仏石も残る。琴南の山深くで説法したという話、滝宮の念仏踊りは法然の振り付けだという説もある。「真偽はさておき、数々の伝説が残っているということは、それだけ讃岐にも影響を与えた人だったんでしょう」と近兼さん。

 同町四条。三福寺の一つ、清福寺跡は法然堂と呼ばれ、今でも集会場として使われている。入り口には法然が腰掛けたとされる梅の木が掲げられており、中には上人の石像をまつっている。地域の人たちも毎月のおつとめを欠かさない。鍵(かぎ)を預かっている近くの木村悦子さん(65)は「私の子どものころは市が立ち、どこからか浪曲が流れていましたよ。みんなの寄り合いの場ですね」と話す。

清福寺跡の集会場には法然の石像がまつられている。地元の人たちは毎月のおつとめを欠かさない=満濃町四条
清福寺跡の集会場には法然の石像がまつられている。地元の人たちは毎月のおつとめを欠かさない=満濃町四条

 「昔は小さなお堂だったけどね。今でも法然さんに生かせていただいとるんよ。ナンマンダブ、ナンマンダブ」。お堂の隣に住む京兼ヒサノさん(87)はそう言いながら目を細める。昔のにぎわいはもうないが、ゆかりの地は今でも大切にされている。「もうちょっと向こうにも小さなお寺の跡があるんよ」。ヒサノおばあちゃんに案内された一面の麦畑の中。真福寺跡には石を積み上げただけの五輪塔がひっそりとたたずんでいた。

 高松市仏生山町にある法然寺は、高松藩祖松平頼重が生福寺を復興したもの。本堂には法然自作の阿弥陀仏や真影が安置されている。法然に関する本も出版されるなど昨年来の静かな法然ブームも手伝い、旧跡を訪ねる人が増えているという。

法然上人の足跡
法然上人の足跡

 「人の心はさまざまで、ただ一途に夢まぼろしの浮き世の楽しみを求め、死んだ後のことなど知らぬものもおります。この世の利益、名誉などには誰(だれ)しも心惹(ひ)かれるものではありますが、そのはかなさは日々私どもが目にし、耳に聞くところであります。ただ返す返すもお心を静めて、これらのことをよくよくお考えくださいますように」

 運命だろうか、遠く讃岐で教えを説いて回った法然上人。世紀を超えてもそのメッセージには染み入るものがある。

 南無阿弥陀仏―。

文・村川 信佐(観音寺支局) 写真・鏡原 伸生(写真部)