山頭火のみち(長尾町内など)

2000年2月7日

句碑を楽しむ遍路旅

 今年は、放浪の自由律俳人、種田山頭火(たねださんとうか)(一八八二―一九四〇年)の没後六十年に当たる。四国霊場結願寺大窪寺や八十七番札所の長尾寺などがある長尾町を散策すれば、寺の本堂や旅館の軒先などで、かつてこの地を訪れた山頭火をしのぶ句碑に出合うことができる。

山頭火が詠んだ大窪寺の句碑「ここが打留の水があふれてゐる」=長尾町多和
山頭火が詠んだ大窪寺の句碑「ここが打留の水があふれてゐる」=長尾町多和

 現在、このような句碑は同町内を中心に近隣の志度、庵治町、少し離れて善通寺市などに計八十基余り立つ。これらの点と点は、まさに一つにつながり、「山頭火のみち」として、知られるようになった。

 九州や東北地方まで足を延ばした山頭火は昭和三年と十四年の二回、土庄町で没した同じ自由律の俳人、尾崎放哉(おざきほうさい)(一八八五―一九二六年)の墓参と四国遍路の旅で、

讃岐の地にも足を踏み入れている。三年の際の記録はほとんどないものの、十四年には、県内で約百句余りを作句。小豆島での三十七句をはじめ、長尾町内でも二十二句を残している。

 同町内での句碑は、平成四年九月に建てた大窪寺阿弥陀堂前の「ここが打留の水があふれてゐる」が第一号。この句は昭和十四年十月、実際に同寺で詠んだ句だ。

 町文化協会が、町の貴重な観光資源でもある結願寺に付加価値を見いだすため、四国遍路をしながら数々の名句を詠んだ山頭火にスポットを当て、句碑建立を進めた。四国遍路と山頭火を融合させたわけだ。

山頭火はこんな山道を通って大窪寺から阿波へ向かったのかもしれない=長尾町多和
山頭火はこんな山道を通って大窪寺から阿波へ向かったのかもしれない=長尾町多和

 平成六年九月には、地元の文化人ら約五十人で組織する長尾町山頭火顕彰会(藤井洋一会長)が発足。「本当に山頭火を愛する人たち、長尾町を愛する人たちが集まって民間主導で活動の輪を広げていった」と藤井さん(68)は当時を振り返る。

 顕彰会では山頭火の日記から書体を抽出する「集字」などを通じて字体の提供をしたり、場所選定などを助言。地元の人たちの協力や県外のお遍路さんの助成なども得て句碑が目に見えて増えていった。

 藤井さんとともに句碑建立の中心メンバーで、俳人協会会員の砂井斗志男さん(68)は「大窪寺の南面からどの道を歩いて阿波へ向かったか、というまぼろしのみちを想像することに夢を持っている」と話し、「句碑のみちが心に残す二十一世紀への道標(みちしるべ)になれば」と意義を語る。

 山頭火が小豆島に来島した折に世話をした俳人の井上一二のおいに当たる井上泰好さん(69)は「動の山頭火と静の放哉はよく比較され、放哉の命日に二人についてフォーラムを開いたこともある。生前ついに会うことがなかった二人だが、えにしはずっと通じている」という。

山頭火の主な句碑図
山頭火の主な句碑図

 放哉が最後を過ごした南郷庵がある土庄町西光寺には、山頭火が詠んだイチョウが今も残る。その句碑を建立しようという計画もある。

 「散りしくまへのしづかさで大銀杏」―。山頭火のみちは確実に広がっている。

文・木下 亨(生活文化部) 写真・山崎 義浩(写真部)