春日川の川市(高松)

2001年5月21日

牛の骨の供養が起源

 春日川に川市が立つと、それは初夏の知らせ。

 赤や黄のテントを張った露店が、高松市木太町の春日川の河原を埋める。タコ焼きやイカ焼きの香りに誘われるように、子供や家族連れが集まってくる。

夜の河原に浮かび上がる春日川市の露店。高松の初夏の風物詩となっている=高松市木太町
夜の河原に浮かび上がる春日川市の露店。高松の初夏の風物詩となっている=高松市木太町

 タコ焼きをほおばる子供たちの大半は、昔は農道具の販売が中心だったことを知らない。ましてや牛の骨の供養が川市の始まりとは思いもよらないだろう。

 「木太町郷土誌」に春日川の川市の縁起がある。

 『一八五〇年ごろ、春日川で遊ぶ子供たちが牛の骨を拾った。子供は縄で数珠をつくって骨を中心に輪となり、念仏を唱える百万遍遊びをした。その夜、親の夢に牛が現れ、「ありがたい供養のおかげで成仏できる」と礼を言った。驚いた親たちが清光寺の住職に相談し、流れ灌頂(かんじよう)の供養をした。それから毎年、旧暦四月十八日に流れ灌頂を続けた。地域の人が大勢集まるので、市も立つようになった。』

 清光寺(高松市片原町)の長谷慈敞住職(68)は「終戦までは住職が出掛けて流れ灌頂の供養をしていた。幼い私も市を楽しみながらおつとめを手伝っていた」と証言してくれた。

1965年ごろの川市の光景。露店に時代の隔たりを感じるが、にぎわいは今と変わらない
1965年ごろの川市の光景。露店に時代の隔たりを感じるが、にぎわいは今と変わらない

 流れ灌頂は水の浄化力を借りて、死者の霊を供養するための儀礼。長谷住職によると、春日川では六本の卒塔婆(そとば)を流れる川に立て、水の事故などで亡くなった先亡たちの成仏を祈る法要を執り行ったという。

 長く続いた流れ灌頂も第二次世界大戦の終戦が近づくころ、若者が戦地に赴いたり、集会が禁止されて市が中断したのに伴い、戦後は開かれなくなった。川市の起源だった流れ灌頂は姿を消したが、市だけが戦後に復活したわけだ。

 春日川市のもうひとつの顔が農道具市。流れ灌頂は麦刈りと田植えの直前の時期に当たる。そこで、ありとあらゆる農道具が市で取り扱われ、野菜の種苗や植木を販売する露店が立ち並んだ。農繁期を前に骨休めするとともに、必要な道具をそろえる市だった。

 「これまで六十回以上は川市に遊びにいった。地域には大事な年中行事」。地元の木太地区連合自治会会長の河田澄さん(75)は昔の市の光景を懐かしむ。

 かつては芝居小屋やノゾキカラクリ、パチンコなどの興行もあり、それはそれはにぎやかな市だった。木太地区だけでなく、屋島など周辺からも大勢の人が集まった。農道具市は機械化や農家の減少に伴い、一九六〇年ごろを境に色合いが薄くなったという。

清光寺にある6本の卒塔婆。春日川の流れ灌頂でも同様の卒塔婆を使用していた=高松市片原町
清光寺にある6本の卒塔婆。春日川の流れ灌頂でも同様の卒塔婆を使用していた=高松市片原町

 流れ灌頂の灌頂市は、県内では香東川などでも催されてきた。春日川では木太地区を皮切りに市が上流にさかのぼり、五月二十日は元山地区、五月二十五日は川島地区で川市が立つ。

 現在の春日川の川市は、流れ灌頂も農道具市の要素もすっぽり抜け落ち、食べ物やくじなどの露店が立ち並ぶ。河田さんは「世代によって、思い出はずいぶん異なるはず」と指摘する。春日川の表情も護岸工事などで大きく変化した。

 時間の流れとともに形を変えてきた川市だが、初夏のにぎわいだけは、いまも変わっていない。

文・福岡 茂樹(報道部) 写真・鏡原 伸生(写真部)