辰巳(たつみ)の正月(三豊地区)

1999年12月20日

新仏しのぶ師走行事

小さい方から重ねた鏡もちや豆腐、左右反対のしめ縄などを飾った仏壇の前にすわり今年亡くなった家族をしのぶ=詫間町浜田の民家
小さい方から重ねた鏡もちや豆腐、左右反対のしめ縄などを飾った仏壇の前にすわり今年亡くなった家族をしのぶ=詫間町浜田の民家

 「父のいい供養ができました」

 十二月最初の辰(たつ)の日の六日。詫間町浜田の会社員組橋紀美代さん(48)宅では、午後からお坊さんを招き、今年亡くなった父の孝さんを親族でしのんだ。多くの人がお参りできるようにと座敷にしつらえた仏壇には、小さい方から積み重ねた鏡もち、逆に編んだしめ縄、豆腐などが飾ってあった。

 三豊地方の特に海岸沿いに色濃く残る「巳(み)の日正月」「辰巳の正月」などと呼ばれる習わしは、十二月最初の辰、巳、午(うま)の日にかけて営まれる“新仏の正月”だ。この古くからの習慣は、愛媛県川之江市や広島県沖の島々にもあるという。

 あくまでも民俗習慣で、宗教的儀式ではない。口伝えで、綿々と受け継がれただけに、地域や家庭によって方式は異なり、だんだんと簡略化している。

 「辰巳の正月」と呼ぶ豊浜町は、今も比較的厳格に習慣が残っている地域。辰の日には、親類や近所の人が「とんだ正月でおめでとうございます」などと言って、豆腐を新仏のある家庭へ持参。その家では、仏壇に松を立て、左右反対のしめ縄(なわ)とその日についた鏡もちを上下逆に飾り、はしを立てた豆腐を供え、“先祖の正月”を演出する。

平成5年12月、辰から巳の日に変わる深夜、墓の前でしめ縄を焼いたり、出刃包丁に刺したもちを食べる親族=豊浜町内(豊浜町提供)
平成5年12月、辰から巳の日に変わる深夜、墓の前でしめ縄を焼いたり、出刃包丁に刺したもちを食べる親族=豊浜町内(豊浜町提供)

 辰から巳の日に変わる深夜、身内が墓に参り、しめ縄を燃やして焼いたもちを食べる。なべぶたにもちを載せて切り、包丁で刺して後ろ向きに差し出したもちを、手を使わずに食べる。

 午の日には、辰の日にもちをもらった人が早朝、「午の日でおめでとうございます」などと言って祝いに来る。そんなことから、一般家庭では巳の日には、正月のもちはつかないものとされている。

 この先祖をうやまう習慣には、いわれが二説ある。詫間町本村、善性院の塩田良次住職(69)は、「昔、丸亀藩の殿さんが、師走に迎春準備に追われる町人に、生き仏の祝いをするなら、その前に先祖の正月をせよと命じたのが始まり」と古老からの言い伝えを話す。「その日が巳の日だったことから、巳の日正月といわれるようになり、いつの間にか新仏をまつるようになった」と説明する。

しめ縄を飾った新仏の眠る墓。こうした光景も近年では少なくなった=詫間町本村、善性院
しめ縄を飾った新仏の眠る墓。こうした光景も近年では少なくなった=詫間町本村、善性院

 豊浜町和田浜、宗林寺の岡田高功住職(62)は「その年、家庭内に起きた不幸を取っ払う、新年への前向きな習慣ではないか」と前置きし、「戦国時代の伊予で、決戦前夜の辰の日、敗戦必至の武将が度胸を付けるため、つきたてのもちを焼いて包丁に刺して食べた。翌巳の日、思わぬ勝利を得て明くる午の日に祝宴をした」という言い伝えを記憶していると話す。

 「もちを包丁に突き刺して食べるなど、普通はしないことをして、元気や勇気を出して未来に立ち向かう。辰己の正月にはそんな思いも隠されている」

 豊浜町でも昔のような形で、辰巳正月を祝う民家は少なくなった。簡素になったとはいえ、「心」は引き継がれる。今年、長男の泰明さんを亡くした岡田住職も「わが家もそっと身内だけで、辰己の正月を祝う。二〇〇〇年はぜひ明るい年にしたい」と口元をきりっと結んだ。

文・木下 亨(生活文化部)  写真・山崎 義浩(写真部)