国分寺の鐘の伝説(国分寺など)

2002年3月18日

庶民の思い映し流布

 毎日、数多くのお遍路さんが訪れる四国霊場八十番札所、国分寺(国分寺町)。中門をくぐって参道を進んでいくと、右手に鐘楼(しょうろう)が見えてくる。

高さ約1・5メートル、重さ約1200キロの国分寺の鐘。竜頭は芸術品のような美しさだ=国分寺町
高さ約1・5メートル、重さ約1200キロの国分寺の鐘。竜頭は芸術品のような美しさだ=国分寺町

 まぶしい緑のマツの木を背景に、鐘楼の中で静かにたたずむ釣り鐘(がね)。四国最古で、国の重要文化財にも指定された由緒ある鐘だ。しかし、この鐘にまつわる伝説を知っている人は、そう多くはないだろう。

 その昔、井原郷安原山に大蛇が住んでいた。人々は恐れ、生業もままならない。そこで、弓の名人、別子八郎(べっしはちろう)が大蛇退治に乗り出した。

 八郎は弓を引いてこれを射たが、カンという音がして矢が立たない。大蛇は、もはや矢は尽きたと思い、頭にかぶっていた鐘を脱ぎ、八郎を一飲みにしようとした。

 八郎が、ただ一筋残していた矢で射ると、大蛇はたちまち血を流しながら逃げ去った。

 この大蛇は、安原下鮎滝の童洞(どうどう)の渕(ふち)に住んでいた竜だった。退治できたのは観音様のおかげと、八郎は脱ぎ捨てた鐘を讃岐国分寺に寄進した。(塩江町史から抜粋)

 伝説の舞台となった童洞の渕は、現在の香川町安原下にある。

 ごつごつした岩場に囲まれたこの渕。深い緑色をたたえた水面が、神秘のムードを醸している。

深い緑色の水をたたえる童洞の渕。水底は鳴門に通じるという言い伝えもある=香川町安原下
深い緑色の水をたたえる童洞の渕。水底は鳴門に通じるという言い伝えもある=香川町安原下

 「地元の人は伝説を知ってか渕には入らないけど、よそから釣りに来る人はいるよ」と近くで土木作業をしていた男性。

 そんな話をしている間に、ジェット機がごう音を立てて真上を通り過ぎた。そう、ここは高松空港から一キロと離れていないため、時折飛行機が爆音とともに降り立つのだ。

 伝説は色あせなくとも、その舞台は時代とともに表情を変えてしまったようだ。

 伝説は伝説としてそっとしておくのも美しい話だが、やはり気になるのは真実。国分寺の鐘は、どんな歴史をたどってここにやってきたのか。

 郷土史家の黒川隆弘さん(64)=国分寺町=が、「この鐘は、形や模様から見て、奈良時代末期から平安時代初期に作られたもの」と教えてくれた。

 「古文書などを見るかぎり、讃岐藩主生駒一正(いこまかずまさ)が鐘を気に入って高松城に運ばせた約一カ月間を除いて、ずっと国分寺にあったようです」。

 一正公が鐘を持ち帰った話には、興味深いエピソードが残っている。

しめ縄を飾った新仏の眠る墓。こうした光景も近年では少なくなった=詫間町本村、善性院
しめ縄を飾った新仏の眠る墓。こうした光景も近年では少なくなった=詫間町本村、善性院

 一六〇九年二月二日、鐘を城へ運ばせたが、よい音で鳴らず、「こくぶへいのう」と聞こえた。その上、城内で怪異が起こり、一正公も病床に伏すようになった。これは鐘のたたりに違いないと、同年三月十四日、鐘は寺に返された。

 その後、だれが作ったか「鐘がものいうた国分の鐘が、もとの国分へいのうというた」の俗謡が流行したという。(塩江町史から抜粋)

 この話は「実説」として、鐘楼の立て看板にも書かれている。

 香川民俗学会の中原耕男名誉会長(71)は「伝説は何らかの理由があって生まれるもの」と指摘する。「鐘を返してほしいという庶民の願いが高まった結果、こんな話が飛び出したという見方もある」。

 古(いにしえ)からの伝説は、そのときどきの人々の思いが込められたメッセージだったのだろうか。

 お遍路さんも語り継いだとされるこの伝説。今後も、現代に生きる人の思いが加わりながら、静かに受け継がれていくに違いない。

文・末沢 鮎美(生活文化部) 写真・久保 秀樹(写真部)