海女の玉取り伝説(志度町)

2000年11月6日

子の出世へ命投じる

 一人の海女の悲しい伝説が志度に伝えられている。

志度寺縁起絵図の海女の玉取りの図
志度寺縁起絵図の海女の玉取りの図

 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。

 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。

 鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。

時の流れとともにこけむした海女の墓。志度寺のお遍路さんも伝説の海女のめい福を祈り、その姿が途絶えることはない(多重露光)=志度町志度
時の流れとともにこけむした海女の墓。志度寺のお遍路さんも伝説の海女のめい福を祈り、その姿が途絶えることはない(多重露光)=志度町志度

 海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。

 腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜が食いちぎっていた。が、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていた。

 房前は藤原家を継ぎ、大臣に出世した。ある日、不比等から母の死の理由を聞かされ、志度を訪問。千基の石塔を志度寺に建て、菩提(ぼだい)を弔った。

 「祖母の手枕(まくら)で何度も聞いたものですよ」。志度町史の生き字引、岡村信男さん(79)に「海女の玉取り伝説」を聞かせてもらった。

海女が玉を引き上げた真珠島。昭和20年ごろ。現在、周囲は埋め立てられ、臨海工業団地の一角に位置する=志度町志度
海女が玉を引き上げた真珠島。昭和20年ごろ。現在、周囲は埋め立てられ、臨海工業団地の一角に位置する=志度町志度

 伝説は志度寺の由来を記す「志度寺縁起」のひとつに伝えられ、能の「海士」にもなっている。いつ、どこの、だれが物語を創作したのかは、定かでない。

 不比等、房前らの登場人物、どの方向からでも釈迦(しやか)の立姿を拝むことができる小さな玉の面向不背の玉も実在している。ただし、悲しき主人公である海女と物語は作り話。

 それでも志度町には、海女が玉を取り上げた真珠島、天野や玉浦など、物語にまつわる史跡と地名が多く残っている。海女の命日の旧暦六月十六日には毎年、志度寺で十六度市という市が立つ。伝説の息づく街だ。

地図

 夫と息子への愛のため、命を投げ出した妻、母…こう単純化すると、いかにも陳腐で、女性はずいぶんと損な役回りを押し付けられたものだ―。と考えていたら、岡村さんは物語にある背景も推測してくれた。

 「当時の庶民の生活は貧しく、貧富の差は激しかった。子供だけでも出世して豊かな暮らしをさせてやりたい。そんな願望が伝説に結びついたのでは」。

 海女の墓は、志度寺の西に実在している。貧しさゆえ、あるいは母性愛ゆえの悲劇なのか。こけむした石肌が伝説をしのばせる。

文・福岡 茂樹(報道部) 写真・鏡原 伸生(写真部)