権兵衛芝居(豊中町)

2001年7月23日

英霊に捧げる鎮魂歌

 時は江戸中期の寛延三(一七五〇)年一月。水害や飢饉(ききん)で収穫高は伸びず、三豊地方の農民たちの生活は困窮を極めていた。お国からの厳しい要請に応じるため、必然的に藩は厳しく年貢を取り立てる。水増し要求して自分の取り分とする悪代官まで現れる始末だ。

 「徳政」を求める親書を送っても握りつぶされて城内まで届かない。「一揆(いつき)しかあるめえ」。追いつめられ、業を煮やした農民たちはついに決起へと至る。「西讃農民一揆」である。願い届かず鎮圧され、一揆の首謀者とされた大西権兵衛ら七人がすべての責めを負う。その年の夏の盛り、七人は刑場の露と消えた。

大西権兵衛ら「七義士」の遺徳をしのび、毎年8月の第1日曜日に上演される権兵衛芝居=豊中町笠田笠岡の七義士神社(資料)
大西権兵衛ら「七義士」の遺徳をしのび、毎年8月の第1日曜日に上演される権兵衛芝居=豊中町笠田笠岡の七義士神社(資料)

 時は流れて二百五十年余。八月の第一日曜日の夜、七人を祀(まつ)る豊中町笠田笠岡の七義士神社にまつりばやしが響く。七人の遺徳をしのぶ「権兵衛芝居」が地元有志の手で上演される日だ。桟敷席は町内外から詰め掛けた観衆で満員御礼。三豊を代表する夏祭りの一つとして知られている。

 明治後期から上演されてきたこの芝居、実は戦後に一度途絶えている。折しもわが国は高度経済成長期に突入。物質文明への渇望が頂点へ向けて急カーブを描く中、「世のため人のため」という精神はどこか隅の方に押しやられていく。いつしか権兵衛芝居は過去の遺物になりかけていた。

 再び脚光を浴びたのは一九八六年。時の政権が掲げた「ふるさと創生」論議が高まる中、町を挙げたまちおこしの目玉となったのが「権兵衛芝居の復活」だった。地元有志は権兵衛芝居保存会を結成。準備に奔走する忙しい日々が過ぎる。

笠田小体育館で行われた1986年11月の復活上演=豊中町提供
笠田小体育館で行われた1986年11月の復活上演=豊中町提供

 復活上演は同年十一月九日、笠田小体育館。千二百人もの観衆が座布団を抱えて詰め掛けた。努力が報われた保存会の喜びは言うまでもない。

 復活後、舞台監督を務めている永井主計さん(60)は「自分のことしか興味がないという風潮がはびこる今こそ、郷土の偉人たちが残した義の心を伝え続けたい」と末長い上演に意欲を見せる。それは、芝居を支える保存会の総意でもある。

 「義に殉じた権兵衛たちの魂が、私たちを引っ張っているのかもしれません」。町職員として芝居の復活に尽力し、その後数回にわたって脚本を書いている曽根幸一さん(57)も同じ思いを抱く。

本番に向けて稽古にも熱が入る=七義士神社
本番に向けて稽古にも熱が入る=七義士神社

 二百五十年の時空を超えて七人の英霊に捧(ささ)げるレクイエム。現在、境内の芝居小屋では八月五日の本番に向けて舞台稽古(けいこ)の真っ最中だ。闇(やみ)夜にともるライトに浮かび上がる神社のにぎわいは、権兵衛らの眠る天からもよく見えることだろう。

 境内の中央には、権兵衛が残した辞世の句を記した句碑が立つ。

 「此(こ)の世をば 泡と見て来し我が心 民に変わりて 今日ぞ嬉(うれ)しき」。

文・黒島 一樹(観音寺支局)