こんぴら歌舞伎(琴平町)

2001年4月9日

支え合う器と芸と人

 ことしも桜咲く季節が巡ってきた。そんな便りが聞こえるころ、琴平の町からは、いつも決まって「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の便りが届く。幟(のぼり)はためく門前の町は、華やかな歌舞伎の色で染まり、一年で最も輝く季節を迎える。もうすでに十七回。いまではすっかり、讃岐路に春を告げる風物詩として定着した。

現存する日本最古の芝居小屋「金丸座」。ことしもまた桜の季節に、こうして小屋に命が吹き込まれた=琴平町
現存する日本最古の芝居小屋「金丸座」。ことしもまた桜の季節に、こうして小屋に命が吹き込まれた=琴平町

 歌舞伎ファンらがこぞって訪れる舞台は、江戸末期の天保六(一八三五)年に造られたという金丸座(旧金毘羅大芝居)。現存する日本で最古の芝居小屋だ。昭和四十五(一九七〇)年に国の重要文化財に指定、同五十一(七六)年にいまの地に移築された。

 役者の息づかいやほとばしる汗、観客の反応が手に取るように分かる舞台と客席の親近感、ゆらめく蝋燭(ろうそく)の光、回り舞台など、すべてが人力で動かされる舞台装置。「きっと昔の芝居はこうだった」と思わずにはいられない。江戸情緒あふれる趣が演じる役者たちやファンらが愛してやまぬ、「こんぴら歌舞伎独特の雰囲気」なのだ。

 「実は初回の公演で(中村)吉右衛門さんにえらい叱(しか)られましてね。窓を開けるのが遅いとか、間の取り方が悪いとか。でも、裏方を務めるのが町の商工会青年部、全員が歌舞伎の素人とあとで知った吉右衛門さんがわざわざ、謝りにこられ恐縮しました」

 こんなエピソードを語ってくれたのは当時、商工会青年部メンバーで現在、町観光協会専務理事の臼杵輝郎さん(49)。

初公演を前に金丸座の視察に訪れた中村吉右衛門さん(左)=昭和60(1985)年2月(資料)
初公演を前に金丸座の視察に訪れた中村吉右衛門さん(左)=昭和60(1985)年2月(資料)

 メンバーは初め「駐車場での車の誘導などのお手伝い」を決め込んでいた。だが、舞台では思った以上に人の力が必要と知り、初回公演の幕が上がる一週間ほど前、急きょ、舞台装置を芝居に合わせて動かすという重要任務が若者の手に委(ゆだ)ねられたのだ。

 演目は二つ。だが、稽古(けいこ)は深夜まで続いた。「町を挙げての大イベント。みなさんに喜んでもらえるのならと無我夢中でした」と商工会事務局の平田雄一さん(46)。しかし、年々増える公演回数に相反し、青年部メンバーは減少傾向。「一人ひとりの負担は確実に増えているんです」と青年部部長の馬場一郎さん(35)。二年前には、満濃町商工会青年部に応援を求めざるを得なかったという。

 「来るたびに気掛かりなことがある」と言うのは、第一回の出演以来、今回で十一回目と最多出演の沢村鉄之助さん(70)。

 「この小屋で演じられるだけで光栄。よくぞ、昔のままで残っていてくれた、が小屋を見たときの第一印象。ちゃんと残してくれていた琴平のみなさんに感謝の気持ちでいっぱい。ただね。何度も芝居をやると、いろんなところの板がすり減ってきてるんですよ」

公演を支えるお茶子たち。かすりの着物に赤い前垂れ姿で接待を一手に引き受ける。「口コミで人気は広がり、ことしは東京、福島、京都などから泊まり込みで来るお茶子さんも」とお茶子頭の泉三英子さん
公演を支えるお茶子たち。かすりの着物に赤い前垂れ姿で接待を一手に引き受ける。「口コミで人気は広がり、ことしは東京、福島、京都などから泊まり込みで来るお茶子さんも」とお茶子頭の泉三英子さん

 この小屋に似合う出し物ができるのも、地元の人たちの協力のおかげだと語る鉄之助さん。しかし、われわれが演じなければ、小屋もきれいに保存されていたかもしれない、というジレンマがあるそう。「でも保存するだけでは小屋は生きてこない。人間がこうして息を吹き込んでやるのも、愛情の注ぎ方の一つでしょう」(鉄之助さん)。

 「長く続いた秘訣(ひけつ)は小屋そのものの持つ魅力と、町民が誇りを持って取り組んでいること」と言い切る山下正臣琴平町長。「建物を活(い)かし、文化を生かす」。町おこしとして取り組んだ琴平の挑戦は、全国で同様の小屋を持つ自治体にとって格好の先例となり、平成十二(二〇〇〇)年度の菊池寛賞受賞につながった。

 大勢の人によって毎年、命を吹き込まれる金丸座。不便なところがかえっていい。芝居の原点に戻れる手作りの舞台。「現代人はちょっと贅沢(ぜいたく)になりすぎていますね」。鉄之助さんの言葉が印象的だ。

文・山下和彦(生活文化部) 写真・久保秀樹(写真部)