直島女文楽(なおしまおんなぶんらく)(直島町)

1999年11月8日

岐路に立つ島の誇り

 「二十代、三十代は子育てや家のこと、仕事も忙しい。この子らの子守まではできんでしょう」

 九年五月、創立五十年の“記念興行”を成功させた直島女文楽。優雅な島文化を伝える一座の四代目座長、隅田美知子さん(69)は「私らはもう自由。孫たちの相手をするつもりで」とも語り、笑い飛ばす。

 「この子ら」とは三十五体の人形。江戸時代、島で盛んだった人形芝居を第二次世界大戦後、復活させ、守ってきた自負がある。毎年、淡路島で開かれる「全国人形サミット」への参加など、年間二十回ほどの公演をこなすため、「中途半端な気持ちでは長続きしない」(隅田座長)と手厳しい。

 が、多くの地域芸能がそうであるように、女文楽もまた後継者不足が最大の悩みの種だ。

毎週2回のけいこに励むメンバー。島の子供たちに興味を持ってもらうのが夢だ=直島町本村、東部公民館
毎週2回のけいこに励むメンバー。島の子供たちに興味を持ってもらうのが夢だ=直島町本村、東部公民館

 全国で唯一といわれる女性ばかりの一座。平均年齢七一・一歳の“年配組”の八人と、その指導を受ける五一・一歳の“若手組”の六人、計十四人がメンバーだ。年配組は一日六時間のけいこを週二回、町教委の呼び掛けで四年七月発足した若手組は毎月二回、仕事を終えてからのけいこに励む。

 ただ、半数は直島製錬所や関連企業の転勤で島に移り住んだ人たち。歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んだった時代の面影など知るよしもなく、こうした交流が島文化の伝承にひと役買っているともいえる。

 江戸時代、天領だった直島は芸どころで知られた。島内には、回り舞台やセリ付きの本格的な舞台(間口十三間、奥行き八間)が造られ、近隣の島々から観衆を集め、明治初期まで島の有志による公演が続くが、その後すたれた。

 初代座長を務めた青木ツタさんの長男・欣吾さん(77)は「ばあさんは本当にデコ(人形)が好きだった。大阪へ家業の衣料品を仕入れに行き、デコ芝居を見て帰るのが唯一の楽しみ。そのうち、周囲に呼び掛けて今の女文楽を興した」と証言する。初舞台は結成翌年の昭和二十四年、敬老会だった。

昭和37年3月の敬老会でのひとこま(上)と当時の準備風景(直島町教委提供)
昭和37年3月の敬老会でのひとこま(上)と当時の準備風景(直島町教委提供)

 初代のメンバーは十人ほど。昭和初期まで現存した舞台小屋の思い出を懐かしみ、女文楽は多くの高齢者に支持された。一座は自らの着物をほどき人形衣装をしつらえるなど、手弁当の地道な活動を続けることになる。

 農業と漁業が中心だった島文化を細々と守ってきた女性たち。戦後、島は企業城下町に姿を変え、女文楽はその担い手の一部を製錬所に求めた。今、豊島産廃の受け入れを巡り、再び岐路に立つ直島。島と盛衰をともにしてきた女文楽もまた、大きな転機を迎えている。

 「女文楽は世界一じゃ。島に長く生きれば、よさがよう分かる」。一座の最年長で二十五年以上のキャリアを持つ生駒キミヱさん(82)は誇らしげに語る。

 自前の浄瑠璃と三味線の復活、生駒さんのプライド…これらを子供たちに託したいというのが、一座の願いだ。二十一世紀、それが実現するのかどうか。それもまた、島の決断の行方にかかっている。

文・山下和彦(報道部) 写真・久保秀樹(写真部)