金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第7話

伝明兆筆 釈迦三尊十六羅漢図

技量感じる闊達な線描

岡山大学文学部助教授・伊藤大輔

 金刀比羅宮の地には上古の山岳信仰の中で大三輪明神(おおみわみょうじん)(大物主神(おおものぬしのかみ))が祭神として祭られていたようだが、これが中世の神仏習合の中で仏教の守護神クンビーラと同一視されるようになり、現在の金毘羅信仰の核が出来上がったようだ。江戸時代に入ると一山は金毘羅別当金光院(こんこういん)の管轄となり、山内では僧侶が諸事を執り行った。明治の神仏分離令により、仏教色は一掃されたが、このような関係で、金刀比羅宮には現在も優れた仏教絵画が伝えられている。

 ここに紹介する「釈迦三尊十六羅漢図」は、中でも作行の優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在が世に知られていなかった作品であり、一般に紹介するのは、今回が初めてではないだろうか。

釈迦三尊十六羅漢図(左右幅118.0×57.0センチ、中幅162.0×82.0センチ)
釈迦三尊十六羅漢図(左右幅118.0×57.0センチ、中幅162.0×82.0センチ)

 釈迦、文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)を描いた釈迦三尊像を中幅に、左右に八尊ずつを描いた羅漢図が並ぶ三幅対の構成である。仏教全体の祖師である釈迦の像や釈迦から正法護持(しょうぼうごじ)を委嘱された羅漢の図は、平安末期からの仏教における原点回帰の風潮に乗った釈迦信仰の隆盛と、日宋貿易に伴う新来の仏画の流入の刺激を受けて、中世にも盛んに描かれた。

 組み合わされている釈迦像と羅漢図は、ともに中国の宋元画を原本に、鎌倉時代に活躍した詫磨派(たくまは)の画家が受容し、中世に流行した図様をそれぞれ踏襲しており、これらを三幅対にまとめる事例は、中国元代の作とされる山梨・一蓮寺本(いちれんじぼん)や、日本の鎌倉・南北朝時代の作とされる岡山・頼久寺本(らいきゆうじぼん)が見られる。

 しかし、これらの事例は、脇幅が十八羅漢図であり、本作が十六羅漢図となっているのとは異なる。これは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させる。各幅の線描は闊達(かったつ)で、画家の優れた技量を示す。中幅の金彩の目立つ明快な色感や柔らかい釈迦の表情は、和様化が進行していることを語っている。脇幅では、白みがかった肌色が南宋末の仏画の色感を比較的忠実に伝えており、時代観に多少のずれを見せている。

 社伝では明兆(みんちょう)筆と言われている。彼は十四世紀の後半から十五世紀の前半に活動し、主に東福寺において仏事で用いる儀式用の仏画を描いた。明兆には、大徳寺の宋画五百羅漢図を模写した「五百羅漢図」があるように、宋元仏画を手本にした仏画を制作しており、その意味で本三幅対の作者としても、ふさわしい人物ではある。ただし、手本を写していることもあって、本図に明兆個人の明確な痕跡を見出すことは難しい。また、明兆筆「五百羅漢図」では色面がかなりフラットになっているが、金刀比羅本の羅漢は、より隈取りが強く、羅漢図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。

 このように金刀比羅本の図像は、鎌倉時代の後半から釈迦三尊十八羅漢図として、日本に受容されているが、それら初期作に比べ、三幅ともに和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること、構図の緊密感にやや欠けること、あるいは中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを勘案すると、やや時代は下がって、およそ明兆と同時代の、優れた絵仏師の作ということはできるのではなかろうか。

(2003年5月18日掲載)

金刀比羅宮で美術品調査をする伊藤助教授
金刀比羅宮で美術品調査をする伊藤助教授

いとう・だいすけ 1968年神奈川県生まれ。96年3月東京大学大学院美術史学専攻博士課程退学。同年4月から99年9月まで東京大学助手を務める。同年7月博士号取得。10月から岡山大学文学部助教授。この間、99年10月から2000年9月までプリンストン大学客員研究員。専攻は日本中世絵画史。

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