金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第54話

こんぴらさんは私の原点

年に一度、初心に帰る

加ト吉社長・加藤義和

 加ト吉創業の原点は「瀬戸内海とこんぴらさんにある」と私はいつも思っている。

 家業は瀬戸内海で捕れるカタクチイワシや小エビを使った煮干し、干しエビの加工業だった。九歳の時に父が戦死したため、私が幼かったころ、三人の子どもを育てるため、母は朝四時から夜遅くまでがむしゃらに働いていた。五月から十月は水産加工のシーズンで、それ以外の時期も実家の農業を手伝ったり、親類の蒲鉾屋(かまぼこや)で働いたりと母はまさにフル回転の状態。私が高校進学を控えた中学三年の時、一家の頼みだった祖父が倒れ、カタクチイワシを仕入れる男手がいなくなり、随分迷った末に進学を断念した。

金刀比羅宮例大祭に参加する加藤義和社長(2003年10月10日)
金刀比羅宮例大祭に参加する加藤義和社長(2003年10月10日)

 家業を継いだ一年目のオフシーズン。私は誰に言われるでもなく、蒲鉾の行商をすることにした。「働きづめだった母を少しでも楽にしてやりたい。他人が何もしていない時でも、一生懸命頑張れば、家計が少しでも潤う」。そんな思いからの行動だったが、それも懸命に働く母の後ろ姿を見て育ったからだろう。

 行商先に選んだのが、こんぴら参りで知られる門前の町・琴平。観音寺から一番近くてにぎやかな町だった。距離にして二十五キロほどあるものの、土産物屋、食堂、旅館が建ち並ぶ琴平なら、何とか商売が成り立つと考えていた。朝三時に起きて三時半に観音寺を出発。緩やかな坂の続く伊予見峠を越え、毎日自転車で琴平へと通った。

毎年、誕生日に参拝記念の写真を撮影している表参道の矢尾写真館
毎年、誕生日に参拝記念の写真を撮影している表参道の矢尾写真館

 しかし、十五歳の少年が大きな老舗旅館に相手にされるはずもなく、最初は散々。小さな旅館や八百屋、うどん屋を訪ねては、荷物の運搬やうどん鉢洗いを手伝って、まずは信用を得る努力をしていった。その結果、徐々に売れるようになり、行商も軌道に…。琴平の町では、商売の厳しさや人から信用してもらうことの難しさ、それに人の情を教えてもらった気がしている。

記念写真はことしで49枚になった(左は20歳、右は68歳)
記念写真はことしで49枚になった(左は20歳、右は68歳)

 手元に四十九枚の写真がある。私には誕生日の一月七日に、こんぴらさんへお参りする習慣があるが、その際、参道の写真館で毎年必ず撮影している、いわば「私の人間的な成長の記録」だ。ちょうど会社を興そうと決意した二十歳の時に撮影したのが最初で、以来、一年間の感謝の気持ちと、新年の誓いをたて、神様にお参りしている。写真を見ると、当時の自分の気持ち、自分の体調まで思い返すことができる。これらは「私の宝物」と言っていい。

 瀬戸大橋開通の年の一九八八年に県内最大の旅館を少年時代の思い出の地・琴平につくることができ、三十三年に一度の御遷座の年にはニューレオマワールドを開業することになった。節目節目でお宮とかかわりを持つことができ、不思議なご縁を感じている。

4月11日にオープンしたニューレオマワールド=綾歌町
4月11日にオープンしたニューレオマワールド=綾歌町

 香川の活性化が私の願い。それには、こんぴらさんや点在する四国八十八カ所の札所、観光施設が点ではなく、面としてつながらなければならない。ニューレオマのオープンでそれらが面としてつながり、お世話になった香川のみなさんへの恩返しになれば幸いだ。

 瀬戸内海という自然を相手に商売を始め、商売の不安定さを肌で学んだ。しかし今日、こうして順調に歩んでこられたのも、海の神様・こんぴらさまのご加護の賜物だと感謝している。(談)

(2004年4月25日掲載)

かとう・よしかず 1936年観音寺市生まれ。中学卒業と同時に家業の水産加工業を継ぎ、56年加ト吉水産(現加ト吉)を創業。62年に冷凍食品の製造販売を開始。75年観音寺市長に当選、4期16年を務める。著書に「後ろ姿で学んだチャレンジ経営」(講談社)「がんばれば、ここまでやれる」(経済界)など。(2002年から金刀比羅宮責任役員。

ページトップへ戻る