金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第5話

由一 日本近代文化史上の金字塔

新境地開く「風景名作」

京都造形芸術大学長・芳賀徹

私と高橋由一
 私が初めて金刀比羅宮学芸参考館に高橋由一の作品を見に行ったのは、昭和三十六(一九六一)年の秋たけなわのころだった。私は大学院の博士課程を終えたばかりの、定職もない身分だった。九州での調査旅行からの帰り道、なんの紹介もなしに訪ねた私を親切に迎えてくれ、高橋由一を研究したいのだというと、いよいよ面白がって話しこみ、うどんまで御馳走してくれたのが、いまはなき学芸員の松原秀明さんである。松原さんのあの勉強好きなお坊さんのような風貌と、あの日、秋日和の琴平山に群れ咲いていた山茶花の美しさは、いまもなつかしく思い出される。

 その後も一人で、あるいは大学院生たちを連れて、何回か金刀比羅宮にお参りし、高橋由一への愛着を深めたが、実は私のこの由一への関心のきっかけをつくってくれたのが、『ビルマの竪琴』の作者竹山道雄先生だった。昭和三十六年の夏、鎌倉・瑞泉寺での先生を囲む小さな研究会で、会後の閑談に、先生は、最近金刀比羅宮で見てきた高橋由一について「あれは面白いものですな」とふと語った。先生は徳川中期からの蘭学の思想運動にも久しく興味をよせており、その延長線上にあるものとして由一を見てこられたらしかった。恩師のこの一言に刺激されて、その秋、私は琴平に行き、すぐに由一に深入りしていったのである。

洋画道の志士
 金刀比羅宮学芸参考館の壁にそっけなく飾られた由一作品は、どれもがみな名作とはいわなくとも、どれもがみな強く好奇心を誘って、まさに「面白い」。私の呼んでいう「洋画道の志士」が、幕末維新という政治の時代のさなかにあって、油絵の「迫真」の美を求めて悪戦苦闘し、手さぐりし、工夫し、逡巡し、発見をかさねてゆく、その一進一退、一喜一憂のさまが、この学芸参考館に立てばおのずから身に迫ってくる。

 『読本と草紙』ならばまだわかるにしても、たとえばあの『豆腐』など、高橋由一はいったいなにを思ってこれを画題にとりあげたりしたのだろう。民衆絵画と呼ばれる浮世絵でさえ、豆腐と油揚げと濡れてささくれ立ったまな板を主題にした絵などというのは、私はまだ見たことがない。中国・日本の何千年かの美術史上、この由一作が最初で、たぶん最後でもあったろう。由一の頭のなかには、まさに維新=革命が生じていたのだ。しかも、このもっとも描きにくいものを描いて、その質感の把握のみごとなこと!

琴平山遠望図(60.1×141.7センチ)
琴平山遠望図(60.1×141.7センチ)

モニュメント
 そしてもう一つ、明治十三(一八八〇)年作の『琴平山遠望図』も、由一の画業の一つのモニュメントといえるだろう。由一は明治初年からすでにいくつかの風景画を描いてはいた。だがそれらは、彼の住まいに近い隅田川沿岸の景が多く、どうしても江戸以来の名所絵風の見かたにしばられて、洋画としての新構想を獲得できないでいた。それがいま、琴平の町はずれに座って象頭山を眺望したとき、はじめて名所絵的発想から解放されて、田畑のむこうに黒々とずしりと鎮座する山塊をとらえつくし、描きつくすことができたのである。山をおおう森の明暗や山ひだをしっかりと描き、それらをとおしてこの山の地質やいわば重量さえも感じとられるほどではないか。この作があってこそ、翌明治十四年から、山形県栗子山隧道(トンネル)の図など、由一の風景名作が展開してゆく。

 学芸参考館の由一コレクションは、昨年春、金毘羅庶民信仰資料収蔵庫内の「由一常設室」に引き継がれた。明治文化史研究上の新たな聖地が生まれたといえよう。

(2003年5月4日掲載)

はが・とおる  1931年山形生まれ。東京大学教養学部卒。55年からパリ大学留学。63年から東大教養学部講師、助教授、教授。91年から国際日本文化研究センター教授、99年から現職。文学博士。著書に『平賀源内』、高橋由一らの画業をはじめて詳論した『絵画の領分』(大佛次郎賞)など。比較文学比較文化専攻。

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