金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第44話

優れた奉納和船(船模型)

造船技術の歴史が集積

元瀬戸内海歴史民俗資料館調査普及課長・徳山久夫

 金刀比羅宮に奉納された和船模型は、造船技術からみても優れたものである。国から重要有形民俗文化財に指定された和船模型は、四十一点になる。その内訳は廻船二十六点、遊船六点、漁船四点、艀船二点、その他に団平船、長崎ペーロン船、機帆船が各一点ずつ。こうした和船模型のうち、七点は十分の一の縮尺になっており、その大きさにおいても和船研究の重要な資料といえる。

垣立の前半にだけ菱垣をつけた表菱垣廻船・金比羅丸。日本で最も優れた模型の一つ。寛政8年の奉納。全長277・8センチ、710石積
垣立の前半にだけ菱垣をつけた表菱垣廻船・金比羅丸。日本で最も優れた模型の一つ。寛政8年の奉納。全長277・8センチ、710石積

 最も優れていると評価されているものに、寛政八年(一七九六年)の金比羅丸の模型がある。海部屋市左衛門の作で、大坂の富田屋吉左衛門の持ち船だ。奉納者は金比羅丸の船頭・悦蔵である。積石数七百十石。船首の浪切り材の水押(みよし)の幅も下部の方ほど狭くなっている。

 よく見ると、船の左右の垣立(かきたつ)の前半分に木で格子戸のように組んだ表菱垣(おもてひがき)がついている。これは江戸十組(とくみ)問屋の荷物を専門に運ぶ船の印である。船頭の部屋には、神棚と仏壇が祀られている。荒天の海で船乗りが髪を切って神棚に供え、海上安全を祈ったのである。

 模型に、ここまで精巧に製作されているものは少ない。同様な表菱垣廻船が、文化五年(一八〇八年)にも奉納されている。

金刀比羅丸の実測図
金刀比羅丸の実測図

 また、後期北前型弁財船といわれる模型もある。小豆島の田之浦(内海町)の船大工・仁兵衛が、慶応元年(一八六五年)十月に奉納したものだ。積石数は三百八十石、十九反帆の大きさだ。写真でも分かるように、前方に浪切り用の水押が突き出しており、後部に急な反りがみられるのが特色である。

後期北前型弁財船。北海道松前藩まで行った北前船の模型。慶応元年10月の奉納。全長210センチ、380石積だが、実力は500石積
後期北前型弁財船。北海道松前藩まで行った北前船の模型。慶応元年10月の奉納。全長210センチ、380石積だが、実力は500石積

 こうした船は、瀬戸内の船大工たちが日本海を航行していた北前船の造船技術から学んでいる。

 さらに北海道松前藩が出入りの船に重税をかけたことも、これらの造船技術を発展させた起因となっている。帆柱当たりの幅を狭くするために船の前部の幅を広げ、船底材である航(かわら)を短くするために水押を突き出し、深さを浅くするために垣立を高くしたわけである。こうした工夫で税の対象としての船の大きさは三百八十石積みだが、実際の積載能力は五百石積みとすることができた。いずれも松前藩が船の幅、深さ、長さを計測して課税したため、その対策であったといわれている。

 記録によれば、積み荷としては、北海道でニシン粕・カズノコ・昆布などを積み、瀬戸内地方からは、砂糖・塩・サツマ芋・薬・酒などを積み込んでいる。瀬戸内の船は、一年一航海のサイクルで商いを続けていたのである。

 さらに興味深いものに、正月船といわれるものがある。摂州大坂近江屋熊蔵の栄丸で文久三年(一八六三年)に奉納されている。全長一〇七センチ。正月をわが家で祝う船主が床の間に飾ったものだといわれている。中には、娘の嫁入り道具の一つとして持たせたこともあったという。

 こうした船模型は大坂・紀州・但馬・能登など広い地域から奉納されており、金毘羅信仰が全国的なものであることを物語っている。

(2004年2月15日掲載)

◆菱垣とは 通常の弁財船の垣立の下部にある格子にした菱組の垣立のこと。菱垣によって、問屋仲間の連合体である江戸十組問屋の荷物を専門に運送する廻船問屋の船と分かるようにした。単なる外観上の特徴にすぎず、船の構造や性能に特別の違いがあったわけではない。表菱垣廻船は、垣立の前半にだけ菱垣がついた廻船をいう。

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