金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第30話

文人墨客が描いた琴平

土地柄と人、豊富な題材

作家・佐々木正夫

 讃岐の"こんぴらさん"といえば、遠く江戸時代から多くの文人墨客が礼讃したようだ。前回、志賀直哉の名作「暗夜行路」と琴平のことを紹介したが、俳句や短歌など短詩文学では、県内どこの観光地よりも琴平に残された遺産は多い。

 明治以降の文学者では、森鴎外、高浜虚子、河東碧梧桐、吉井勇、北原白秋、宮本百合子、種田山頭火らが挙げられる。

 紙数の関係で詳しくは書けないが、みなさん、こんぴらさんや琴平へのおもいをつづっている。

琴平花壇の離れと園庭。森鴎外は離れの延寿閣、北原白秋は泉亭に逗留した
琴平花壇の離れと園庭。森鴎外は離れの延寿閣、北原白秋は泉亭に逗留した

 森鴎外(もりおうがい)(一八六二―一九二二年)の来琴は、明治四十一年である。旅館「花壇」で一泊。翌年、小説「金毘羅」を発表した。

 『一月十日に琴平まで来て、象頭山の入口にある琴平華壇に這入った。―食事までには大分時間がございますが今日は丁度土地のものが沢山参詣いたす日でございますから、先生も御参詣なさってはいかがでございませう。山の景色を御覧になっても宜しいかと存じます』(小説「金毘羅」 森鴎外)

 「華壇」とは「花壇」のこと。鴎外の本名は林太郎。陸軍軍医総監のころの小説である。

 俳人・河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)(一八七三―一九三七年)は明治六年、松山市生まれ。明治三十五年、子規没後、虚子といっしょに「ホトトギス」にかかわったが、碧梧桐はやがて自由律俳人として全国を旅する。琴平の旅館「すし駒」の主人・菱谷竹人と気が合い、何度もこの宿に泊まった。そのとき、宿代として書いたのが「温泉めぐりして戻りし部屋の桃の活けてある 碧」など、豪快な染筆を残した。屋号「すし駒」の文字も碧梧桐だ。

 高浜虚子(たかはまきよし)(一八七四―一九五九年)の本名は清。文化勲章。琴平の旅館「桜屋」の主人・合田丁字路と交友。俳誌「ホトトギス」六百号記念俳句大会を「桜屋」で開く。

 たまたまの紅葉祭に逢ひけるも
              虚子

 句碑は現在、高松市の奈良須池近くにある合田邸の玄関にある。

 歌誌「多磨」主宰の歌人・北原白秋(きたはらはくしゆう)(一八八五―一九四二年)の来琴は昭和十年である。屋島と栗林公園を散策して、六月四日「花壇」で泊まった。同夜は地元の久保井信夫らの歓迎を受け、白秋は「線香花火」の座敷芸を披露。好物のアスパラガスをよく食べたといわれる。

 六月六日蛙啼きつつ曇りなり
 この我がゐる松多き山   白秋

金刀比羅宮宝物館の北側にある吉井勇の歌碑
金刀比羅宮宝物館の北側にある吉井勇の歌碑

 歌人・吉井勇(よしいいさむ)(一八八六―一九六〇年)は、昭和五年から十二年にかけ、高知県物部川上流の猪野沢温泉にある渓鬼荘で暮らした。その間、昭和十一年に琴平、多度津、丸亀、高松などで遊んだ。琴平では、「花壇」に泊まった。

 金刀比羅の宮はかしこし船ひとか
 流し初穂をさゝくるもうへ  勇

 歌碑は金刀比羅宮宝物館の北側参道に建つ。琴平の隣町にある満濃池も散策。堤防に「水ならて…」の勇の歌碑がある。

 宮本百合子(みやもとゆりこ)(一八九九―一九五一年)の琴平入りは、戦後の昭和二十一年九月である。町公会堂で講演するために来琴したもので、坂町「虎丸」旅館二階の讃岐富士(飯野山)が見える「富士の間」で一泊。翌朝裏参道を通って公会堂へ出掛けた。紀行文「琴平」は、この日の印象を詩情ある小品にまとめたものだ。

 そのほか、谷崎潤一郎(たにざきじゆんいちろう)(一八八六―一九六五年)は「桜屋」で一泊したが、作品はない。俳人・種田山頭火(たねださんとうか)(一八八二―一九四〇年)は、昭和十四年に来琴。榎井の友人宅で泊まった。

 大門おごそか晴れきった 山頭火

 (句碑、歌碑に濁点がないものもあるが、現地の碑文、そのままを掲載)

(2003年10月26日掲載)

◆久保井信夫(くぼい・のぶお) 1906―75年。琴平町生まれ。「愛馬進軍歌」の作詞で知られる。1周忌に金刀比羅宮境内に「御扉開けの太鼓の音は朝靄のなづさふ谿にながく谺す」の歌碑が建つ。

◆合田丁字路(ごうだ・ちょうじろ) 1906―92年。琴平町生まれ。46―66年俳誌「紫苑」主宰。67年から四国俳壇選者を務める。金刀比羅宮学芸参考館の下に「金ぴらの祭のあとの紅葉晴」の句碑。

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