金刀比羅宮 美の世界

題字・米今正一

第12話

円山応挙 国内最大の空間構成

7年かけ90面の障壁画

京都大学教授・佐々木丞平

 わが国における十八世紀は絵画芸術の最も熟成した時期で、全国的にすばらしい絵画芸術作品が制作されたときでもある。円山応挙(一七三三―九五)は江戸時代中期に京都において写生派を興し、一世を風靡(ふうび)した。狩野派などの伝統描法に対し、近代に続く新しい写生という概念を確立したことは、わが国の絵画史の中でも特筆すべきことである。

重文 瀑布及山水図(寛政6年、応挙62歳の作)
重文 瀑布及山水図(寛政6年、応挙62歳の作)

 金刀比羅宮表書院の障壁画は、京都の豪商三井八郎兵衛の援助によるもので、京随一といわれた応挙に障壁画制作を依頼した記録が確認できる。山水之間、七賢之間、虎之間、鶴之間を合わせると実に九十面の障壁画を描いており、これは現存する応挙の最大の空間構成になる。

重文 遊虎図(天明7年、応挙55歳の作)
重文 遊虎図(天明7年、応挙55歳の作)

 応挙は天明七(一七八七)年にこれらの障壁画制作をスタートしており、寛政六(一七九四)年まで七年間の歳月を費やした。この間、天明八(一七八八)年には京都で大火があり、応挙も焼け出されている。いわゆる天明の大火であるが、こうした困難も乗り越え、応挙は五十代後半から晩年の充実した時期を金刀比羅宮の障壁画制作に充てた。

 応挙の写生を元にした作風は、鶴之間の優美な鶴の姿にも顕著に現れており、さまざまな鶴のポーズが自在に描かれている。今でこそ、応挙が生み出した写生は広く浸透し、珍しいものではなくなっているが、動いている生き物のありのままの姿を写生に留め、絵画化することは当時の人々の目には大変新鮮なものに映った。しかし、応挙の描く虎は実物の虎と雰囲気が異なっているといわれる。

虎之間
虎之間

 確かに丸味を帯びた体や顔の印象が異なっているが、それは当時、虎が輸入されていなかったために見ることも不可能であったことによる。応挙は虎の毛皮などを参考に想像して描いている。ほぼ実物大の大きさは虎を見たことのない絵師が描いたとは思えない迫力に満ち、室中にいれば、その鋭い視線に威嚇される。

 七賢之間は、当時よく画題とされていた中国故事の竹林の七賢人を描いたもので、阮籍(げんせき)、※康(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、王戎(おうじゅう)、阮咸(げんかん)、といった隠士たちが描かれている。

 さて、応挙最晩年の筆になるのが山水之間で、大床の壁貼付右側から勢いよく落ちる滝が左側へと流れていき、画中から姿を消す場所には障子腰張りの向こう側の現実の庭に水が流れており、その音が聞こえてくる。その現実の水の流れの切れるところから絵の中に再び水景が戻って来て、部屋をぐるりと一周して大海へと注ぐ構成となっている。水の生々流転の様は人の一生のようでもあり、応挙は画中にさまざまな変化を付けながら、品格に満ちた作風を展開している。

 卓越した文化財は、多くの人々の芸術に対する深い理解と尊敬によって支えられてきた。そしてその芸術への理解は、その時代の文化レベルによって左右される。何百年もの間守り続けられてきた貴重な芸術作品を、われわれが担う今という時代が十分に理解するだけの力を持っていることを願っている。

※は鷲の京の部分がのぎへん 鳥の部分が山

(2003年6月22日掲載)

ささき・じょうへい 1941年兵庫生まれ。京都大学大学院美学美術史学専攻博士課程修了。京都府教育委員会、文化庁文化財調査官を経て、京都大助教授、91年同大教授。円山応挙研究で97年国華賞、99年日本学士院賞。著書に『円山応挙研究』『応挙写生画集』など。文学博士。日本近世絵画史専攻。

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