金刀比羅宮美の世界 題字・米今正一
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第34話 琴平山博覧会 文明の衝撃

由一、文柳の技に注目か
高松高専名誉教授・和田仁
高松高専名誉教授・和田仁

 ◆わだ・ひとし 1935年高瀬町生まれ。京都大学文学部卒。62年から国立高松高専に勤務。98年退官、同校名誉教授となる。この間、香川県史編さん委員など、いくつかの自治体史編集に携わるほか、高松市歴史資料館展示基本構想研究委員などを歴任。共著に『香川県史(近代・現代)』『町史ことひら3』など。専攻は日本近代史。

高橋由一の「鯛」は明治12(1879)年の琴平山博覧会の直後に描かれた
高橋由一の「鯛」は明治12(1879)年の琴平山博覧会の直後に描かれた

 明治のころは博覧会が花盛りであった。幕末、海を渡った侍たちが、ロンドン、パリの万国博覧会を見ていかに「文明の衝撃」を受けたか、察しがつく。

 明治四年以来、日本国内の各地でも博覧会が開かれているが、讃岐では、明治六年と十二年に、金刀比羅宮を会場に、「琴平山博覧会」が開催された。明治六年の博覧会は三月一日から四月十五日までの予定を、好評のため、五月三十一日まで日延べするほどだった。

 明治十二年の琴平山博覧会はさらに大規模で、出品点数は八万二千余点、これは東京上野の第一回内国博覧会の八万余点に劣らぬ出品数である。三月一日から六月十五日までの会期中、入場者は二十六万五千人、一日平均二千五百人という賑わいであった。まだ鉄道の通じていない時代のことである。

 会場は表書院と奥書院、および庭園が充てられた。入場料三銭を支払い黒門を入ると、そこは「機械館」になっていた。蒸気機関で動く旋盤や精米機、糖蜜分離機、綿繰機、製糸機など、洋式機械がいくつも置かれ、実演されていた。まさに「文明の衝撃」であった。

三木文柳の「鮮魚図」は天明5(1785)年の作(高松市歴史資料館蔵)
三木文柳の「鮮魚図」は天明5(1785)年の作(高松市歴史資料館蔵)

 この時期、志度製糖場で糖蜜分離機を、苗田村の協心社(きょうしんしゃ)で綿繰機を採り入れたが、国産原料に適応しなかったのか、成果は挙がっていない。単なる模倣では成果を挙げられない典型といえよう。

 展示は表書院の鉱物館、農業館、宝物館、奥書院の漆器室、楽器室、兵器室、美術館と続き、寺社の宝物や旧家の家宝、稀覯(きこう)品、各地の特産物など、また庭園には盆栽など、見飽きることがなかった。

 中には、高松藩主松平家に伝わる『衆鱗図』も出展されていた。これは博物好きの五代藩主頼恭(よりたか)が、小豆島の画家・三木文柳(ぶんりゅう)に描かせた江戸中期の魚類図鑑である。

 この博覧会の時、明治洋画開拓の第一人者・高橋由一が油絵三十数点を金刀比羅宮に奉納するが、彼の作品が表書院の長押(なげし)に掛けられていた。由一の絵画は、日本画の様式美とは異なり、西洋画の細密で写実的な技法を学び取ったものである。観衆の目は、西南戦争を扱った「田原坂戦争之図」に惹きつけられていたようである。

 ところで、由一もまた文柳の技法に注目しなかったはずはない、というのが私の推論である。

 由一は、博覧会の直後に「鯛」や「鮭」などの名作を描いた。「鯛」の題材、鯛と伊勢エビの組み合わせは、文柳の「鮮魚図」を意識したに違いない。文柳の作品は鯛の鱗やひれも丹念に、生々しく、鮮やかに描いているが、装飾的で、平板になっている。これに対し由一の作品は鯛の鱗が剥がれ、腹びれも元気はないが、むしろそれが日常人の見る鯛の姿であり、実在感が伝わってくるのである。しかも作品の構図にデザイン美を忘れていない。

(2003年11月23日掲載)


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