一九八四(昭和五十九)年七月二十八日、生島の空は、雲ひとつない快晴。時計の針は午後三時を回っていた。スコアボード上には、校旗が誇らしく揺れている。ナインを苦しめた真夏の日差しに、スタンドから投げ込まれた五色のテープが輝いた。
就任わずか九カ月。監督の鎌田康彦(57)=群馬県高崎市=が何度も宙を舞った。幾多の先輩がつかむことができなかった夢舞台への切符。創部から八十五年がたっていた。
 |
| 84年夏の県大会を制して初めて甲子園切符をつかんだ三本松。ナインがマウンドで喜びを爆発させる(オリーブスタジアム) |
|
◆ ◆
三本松野球部史上最強と呼ばれた前チームとは異なり、「決して周囲の期待を集めるようなチームではなかった」。当時、副主将だった水田鋭次(37)=東かがわ市=は振り返る。前チームから残ったのは中軸を打つ比嘉修と金山幸喜だけ。社会人野球出身の鎌田は就任当初、社会人と高校生の違いに戸惑っていた。ただ「選手自らが練習をもっと厳しくしてほしい、と訴えてきた」と鎌田。その熱意だけがチームの支えだった。
その夏の県大会、飛び抜けたチームはなく、本命不在で迎えた。三本松も苦戦の連続だった。その中で、鎌田は三回戦の尽誠戦をターニングポイントに挙げた。
六回を終わって8―3。三本松ペースだった。しかし七回、何でもない守りのミスから一気に1点差まで詰め寄られ、九回には三連打と押し出し死球で同点。なおも一死満塁。だれもが負けを覚悟したという。
しかし、これを併殺で乗り切りると、その裏、相手のバント処理のミスからサヨナラ勝利を手にする。「一度死んでいた。だから余計に乗った」と鎌田。続く準々決勝、準決勝は快勝。坂出商との決勝も三回に2点を先制すると、二年生エース岸本浩司の力投で3―2で逃げ切った。
◆ ◆
当時、甲子園は清原和博、桑田真澄(ともに巨人)らを擁するPL学園(大阪)の夏二連覇に注目が集まっていた。空前のフィーバーに、マンモススタンドは連日超満員。八十五年目の初陣は大会第七日第一試合。その日の第四試合にPL戦を控え、スタンドは早朝から異様な雰囲気に包まれた。
「満員のスタンドを見回して感動。土にさわって感激。完全に舞い上がっていた」と振り返るのは、捕手の鈴木努(37)=東かがわ市=。相手は関東屈指の強力打線を誇る東海大甲府(山梨)。「後ろから見たスイングは、今まで感じたことのない鋭さ」(鈴木)。岸本はいきなり、先頭打者に得意のカーブを左翼席へ運ばれた。
2―9。選手たちに悔いはなかった。「出ることが目標だった。甲子園で試合ができただけで幸せ」と水田。野球部の歴史に、確かな足跡を記したナインは、胸を張ってグラウンドを後にした。しかし、その横で鎌田は悔しさをぐっと胸にしまいこんだ。「甲子園で勝つにはまだ力が足りなかった」。この日を境に、鎌田は全国で通用するチームづくりに挑むことになった。(文中敬称略) |