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第4部 絶望から希望へ(9) 養護施設の星に 不屈の魂水上駆ける 
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 少年は変だと感じていた。「めったに行かない遊園地や外食に、両親が連れてってくれたから」。次の日、知らない大人に連れ出され、理解できないまま家に帰れなくなった。
 貧しかった。収入の不安定な父と病気がちの母。「自分の食いぶちは自分で」。子供ながらに決意し、自動販売機の釣り銭を探し回った。家賃や電気代が払えず親子で駅で過ごしたことも。見かねた民生委員に通報された。児童養護施設「県立亀山学園」(丸亀市)に収容された時、木村光宏さん(32)=丸亀市=は小学三年生だった。
 「95%はつらいことだったなあ」。職員にはかわいがられたが、学園には自分と違い、親に見捨てられて入った子供が多かった。体が小さいこともあり、彼らの格好のはけ口にされた。毎日のように殴られ、毎日のように死にたくなった。でも職員には言わなかった。学校でも「おまえ、税金で食わしてもらってるんやないか」。逃げられる場所がなかった。
 母は入院しており、父のもとへの帰省が何よりの楽しみだった。だが入園の一年後、大好きな父が死ぬ。しかも「お金がないからか、病院の廊下のベッドで」。つらくて、寂しくて、悔しくて。わいてくる世間への怒り。丸亀競艇場で遊んだのが最後の思い出になった。
 先が見えない生活。高校には進学したかったが、学園は出たい。思いは募り、中学卒業後、住み込みの板前修業をしながら通信制高校に進んだ。何がしたいかは見えず、ただ自由が欲しかった。

亀山学園のなじみの職員と談笑する木村さん(左端)。「学園で子供の顔を見ると、もっと頑張らなきゃと思う」=丸亀市
亀山学園のなじみの職員と談笑する木村さん(左端)。「学園で子供の顔を見ると、もっと頑張らなきゃと思う」=丸亀市


 初めての外の世界。自由に伴う責任。「板前は学校のある日曜が忙しい。『高校なんか出てどうなる』と言われたけど、皆行ってるのに」。ただでさえ不安。退学するくらいなら板前を辞めるつもりだった。
 仕事が嫌になり、父の実家に逃げたことがある。「でも冷たく扱われてね…」。このころ職場の先輩に連れて行かれたのが、父と行ったあの競艇場だ。「周りの鼻を明かすには競艇選手しかない」。
 プロになるには、筆記・体力試験を突破し研修所に入らないといけない。そのためにも学業は続けたかった。結局、世話になった飲食店を辞めた。
 パチンコ店で働きながら、勉強とトレーニングの日々。「命がけ」で取り組むと周りも応援してくれた。念願の高校卒業。そして二十歳、五回目の挑戦で難関の試験を突破した。
 一年間の研修はさらに厳しく、半数も卒業できないのが実情。夜中にトイレで勉強した。「皆はつらそうだったが、何でもなかった」と振り返る。
 選手になっても道は平たんではなく、レース中に三十二針縫う大けがをした。それでも病院の屋上でプロペラ調整に励み、その間に調理師免許も取った。「けがは悔しかったけど、命がなくなるわけじゃない」。学園で培った不屈の精神が生きていた。
 今、トップ選手が集うA1級で活躍中だ。持ち前の根性と負けん気の強さは走りに表れ、ファンも熱くする。一六一センチの小柄な体は武器の一つ。私生活では二児の父になった。
 つらいことの多い学園生活だったが、六年間育ててくれた「ふるさと」にはもちろん楽しい思い出もある。恩返しをしようと三年前からは、学園の子供らを招待しペアボートに乗せ始めた。昨夏には、障害児らにも対象を広げた。大勢の選手や関係者の協力のおかげだ。
 この活動には、学園の子供たちへの思いが込められている。ボランティアを肌で覚えてもらいたい、そして自分の生きる価値や存在意義を再認識してもらいたい。この先、学園が姿を変えても見守り続けるよ―。
 苦しみと挫折の繰り返し。何度でも立ち上がり走り続ける。

(2004年2月13日四国新聞掲載)

 
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