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第4部 絶望から希望へ(15) 隔離の島の詩人(下)生の意味を問い続け 
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 美空ひばりの「悲しい酒」が繰り返し流れる。枕元にはラジカセ。「懐メロばかり。ベッドの上が多いでしょ、音楽を聞いてると楽だから」。
 ハンセン病の国立療養所大島青松園(庵治町)に暮らす元患者の塔和子さん(74)。夫の赤沢正美さんを亡くした二〇〇〇年秋、夫婦寮から病棟に移った。後遺症と高齢のため身の回りのことができにくくなっていた。
 詩人の塔さんにとって、歌人でもあった赤沢さんは読者として批評家として、かけがえのない存在。「亡くなったのが夢みたい。この現実が夢で、もう一つ現実がある気がして」。
 塔さんの半生を描いた映画「風の舞」が〇三年に製作された。「もう私の用は済んだと思っていたのに。こんな話がくるなんて元気づけられますね」。
 詩集や映画の感想が全国から毎日のように届く。手紙を福祉担当の職員や看護師に読んでもらうのが一番の楽しみだ。

福祉担当の職員と談笑する塔さん。「詩集や読者からの手紙を読んでもらうのが楽しみなんです」=庵治町、大島青松園
福祉担当の職員と談笑する塔さん。「詩集や読者からの手紙を読んでもらうのが楽しみなんです」=庵治町、大島青松園

 三十八歳ごろ、隔離生活や人間関係に悩み、不眠症になった。追い打ちをかけるように、入所後も会いに来てくれていた父が、母に続き亡くなったと聞かされた。「こんなとこに、いつまでおったって一緒やな、死んだ方がええなって」。
 二度、自殺を図った。大量の睡眠薬を飲んだ。三日間の眠りから覚めても、「何となく暗い毎日」は続いていた。
 くずおれそうな生を支えるのは詩を書くことしかなかった。「詩がね、人気良くてね。それが、だいぶ助けになって、力になってた」。
 四十歳で第二詩集を発表してからは、十九冊まで出版を重ねている。「記憶の川で」は優れた詩集に贈られる「高見順賞」を一九九九年に受賞した。
 赤沢さんが亡くなった直後、塔さんの夢に現れた。「全詩集を出す話が進んで、今までの仕事が評価されたんだから、もう書かなくていいよ。量も質も十分だよ」。それから二年余り、詩は作らなかった。
 「でも、やっぱりむなしくてね」。〇三年初め、詩作を再開した。目と指の後遺症が進み、口述筆記をしてもらう。医師、看護師、福祉職員、入所者らを題材に詠む。身近な人が喜んでくれるのがうれしい。新たに十数編の詩が生まれた。
 全詩集三巻の発行が二月から始まり、弟が祝福のため大島を訪れた。弟は死の間際の父に、姉が大島青松園にいると打ち明けられた。今では時々、塔さんの好きなサツマイモのてんぷらを土産に会いに来る。
 「塔和子」はペンネームだ。ハンセン病の患者は家族に迷惑を掛けないように、ほとんどが本名を捨てた。「本名で書いてもいいけど、塔和子で詩を書いてきとったから、もう塔和子でいいな、と思ってる」。
 病気にならなければ別の人生があった。子育てにあこがれたこともある。だが、すべて夢想のこと。病気を悲しみ、恨むのではなく、あるがままの生を見つめようとした。
 「何のために生きるのか。心の深いところで、自分の生と死にかかわりたかった」
 ほとんど島を出たことのない療養所の暮らし。生きる意味をまさぐる手は、自らの存在へと向かうほかなかった。手繰り寄せたのは、痛々しいまでに純粋な生の肯定。それは詩の読者に人間の尊厳を訴える。
 「私の人生とは、志した詩をうまく自分のものにできたか、それが一番の問題。自分なりにまじめにしたから、志した以上に、できたと思います」
 千編の詩に生を刻んだ。詩を詠むことで生きてきた。生きる限り詠み続ける。
=おわり=
 (29日付「シリーズ追跡」で総集編を掲載します)
    ◆    ◆
 福岡茂樹、六車禎貴、谷本昌憲、岩部芳樹が担当しました。

(2004年2月20日四国新聞掲載)

 
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