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「石床(いしどこ)幹雄、土庄高校」
各球団の提出リストが発表された瞬間、会場にざわめきが広がった。阪神が第一次選択選手として挙げた名前が、聞き慣れない意外なものだったからだ。
一九六五年十一月十七日、東京・日比谷の日生会館。プロ野球で初の新人採用制度選択会議、いわゆるドラフト会議が開かれた。松竹映画「あなた買います」のモデルになった穴吹義雄(高松高―中大―南海)の争奪戦から十年。自由競争の下で人気球団に偏った戦力の均衡を図り、高騰した契約金を抑えるのが制度導入の目的だった。
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| 阪神からドラフト1位指名され、契約書にサインする石床さん。左から佐川スカウト、父康さん、右は母美好さん=1965年11月28日、内海町福田(石床さん提供) |
当時「二十四の瞳」の島として知られるようになった小豆島にある土庄高は、甲子園出場経験のない無名校だった。数球団が接触していたとはいえ、ドラフト一位候補としてはノーマークの存在だった同校の投手、石床幹雄はくじ引きなしに阪神が交渉権を得た。
石床は授業中、新聞社からの電話で阪神の指名を知る。「サンケイ(現ヤクルト)から二位でという話があり、指名されるとは思ってた。でも、阪神の一位というのは、ふたを開けるまで分からんかったな」。
巨人と人気を二分する名門球団から、まさかのトップ評価。瀬戸内の島からのシンデレラボーイ誕生に島民は沸き立った。
だが、土庄の地名は阪神の地元、大阪近辺ではほとんど知られていなかった。「『つちしょういうてどこにある高校や。愛媛県か、岡山県か』と入団後よく尋ねられた」。石床は苦笑いする。「『いやいや、とのしょうと読むんや。高松商業と一緒で香川県の学校や』。そう言うたら分かってくれた」。
阪神の一位指名選手は、すんなりと決まったわけではなかった。激論の末、担当の佐川直行スカウトが「おれのスカウト生命をかける」と多くの有名選手を押しのけ石床を強力に推薦、指名に踏み切ったのだ。
一七七センチ、六八キロ。直球、シュートに威力があり、体が柔らかく内野もこなせるため、打者としても高く評価していた。
報道陣の取材に、石床は目標とする選手を金田正一(国鉄―巨人)と答えている。
「阪神に入るんやから、エースの村山(実)さんとか言うといた方がええよ」。記者の一人が耳打ちすると、素直な石床は言い直した。「村山さんが目標です」。
翌年の元日。学生服姿の石床が村山を追いかけて土庄町の富丘八幡神社を駆け上がる写真が、在阪スポーツ紙の一面を飾った。見出しは「若トラ石床に希望の朝」。背後には瀬戸内海の波光がきらめいていた。
阪神が石床と並んで一位指名の候補としていたのは、兵庫・育英高の本格派左腕、鈴木啓示だった。前年から「高校を中退してでも」と触手を伸ばし、鈴木も入団を熱望したが、石床獲得で水泡に帰す。
結局、鈴木はドラフト二位で弱小球団だった近鉄へ。二年目から五年連続二十勝、史上四位の三百十七勝を積み上げた。座右の銘「草魂」に反骨の生きざまがにじむ。意中の阪神に入っていれば「最後の三百勝投手」の金字塔は成し得たかどうか。
翌年の阪神のドラフト一位は江夏豊(大阪学院高)だった。
優勝請負人として五球団を渡り歩いた江夏は、著書「左腕の誇り」の中でこう打ち明けている。「前の年に阪神が鈴木をとっておけば、二年連続して左投手はとらない。阪神の江夏は誕生しなかった」。
「石床一位」のドラフトは同世代の投手たちの運命をも変えた。 (文中敬称略)
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ドラフト一位。かつて年十二人だけに贈られたプロ野球選手の勲章は、栄光と挫折のドラマに彩られている。二十一世紀を生きる私たちの幸福のカタチを探る年間シリーズ「青い鳥さがして」。第二部では県出身でドラフト一位を背負った三人の半生にスポットを当てる。
(2003年5月4日四国新聞掲載)
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